余・白

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木陰は揺れる




「何になりたいの?」
覚悟もなく鼓室まで届いた声に、僕の心は恐怖すら感じながら動揺をした。顔を上げると、僕を覗き込む君が「大丈夫?顔色悪いけど。」と不思議そうに言った。

「まだ、決めてないんだ。進路とか、将来とか。」

-決めても意味がないから-という言葉を慌てて飲み込む。決める気など、初めから毛頭ない。僕の夢はもう叶わないのだから。

「じゃ、帰るね」

あ、待ってよ!という声を後ろに僕はそそくさと教室を後にし、ある場所へと歩き出す。どうやら寄らずにはいられないらしい。今日も呼ばれている感覚がするのだ。心も体も素直だな、呆れ笑いをしながら誰もいない美術室のドアを開けた。

木と絵の具の混ざったこの匂いが、生暖かい安心感を生み出している。この空間も、時間がゆっくりと流れるような感覚も、全てが好きだった。

引きつけられるように特別お気に入りだった筆を握り、キャンパスへと空描きをする。海を泳ぐ魚のように滑らかにキャンパスを滑る筆、けれど途端に指先はうまくコントロールできずに震え始め、次の瞬間に筆は床へと落下していく。
スローモーションで落ちていく筆を見ながら、僕は声を出さずに泣いている。僕の愛した絵、僕の愛した美術。この空間全てを心から恨み嫌いになりたいと思うのに、僕は何度もここへ来る。
絵を描いて生きることさえできれば、それ以外は何も要らなかったのに。車に轢かれる前の大きなクラクション音や、手術台の硬さと冷たさが繰り返し僕の脳内を駆け巡り、僕の頭と心を蝕んでいく。
落ちた筆を拾わずに僕は美術室を後にした。


「よお、進路表だしといたぜ」

どうやら僕を心配して靴箱で待っていたらしいこいつに、今日は初めて名前を聞いた。

「高橋だよ!お前人に興味なさすぎな」
あっけらかんとした様子で笑う高橋を横目に、なぜ僕に構うのだろうと不思議に思いながら歩く帰り道。それでも、ひとりだった帰り道よりも孤独と寂しさが紛れる気がして、少しだけ嬉しかった。

「お前は何になりたいんだよ」

「俺?俺は金持ちかなー、いやこれ本気だぜ」
真剣に企業やら副業やら聞き慣れない言葉を語る高橋を無視して歩く。あの美術室の筆を僕はいつか持ち帰ることができるのか、はたまた捨てることができるのかと真剣に考えながら、僕らは夏の木陰に揺れていた。

7/17/2025, 8:44:31 PM