梅雨
この季節に雨が降らないと、作物は育たない。
植物にとっては恵みの季節だが、人にとってはジメジメ・鬱々・不快感を感じやすい季節だ。
恵みの季節と喜ぶ人は、少ないのではないだろうか。
作物を育てている人は、恵みの雨と喜ぶのだろうなと想像していたら、雨降りの先生が脳裏に浮かんできた。
雨降りの先生とは、「つむじ風食堂の夜」(著:吉田篤弘)の主人公だ。
友人の営む小さな編集プロダクションからの雑文を請け負って生計を立てている。
人工降雨を研究テーマに風俗史的な視点から文献にまとめたいと本人は思っているが、生計優先のため、研究は二の次となってしまっている。
住まいは、月舟アパートの屋根裏(人が絶句するような場所)。
「雨を降らせる研究をしているので、空に近いところがいいのです」と冗談を飛ばした結果、それが町内に広まり、「雨降りの先生」と呼ばれるようになった。
十字路にある食堂の面々からは、「先生」と呼ばれ親しまれている。
そんな雨降りの先生のエピソードで、特に印象に残っているのは、雨降り先生が若かりし頃のガールフレンドに用意したとっておきのセリフとそれに対するガールフレンドの返しだ。
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「ほら」
私は彼女を屋上のへりまで連れて行き、そこから、金網越しに雨に濡れた街を眺めおろした。
「すべて平等に雨が降っている」
「そうね」
こちらの意に反し、彼女はやはりどこか遠くの世界の方へと視線をさまよわせ、それから、
「でも、雨って、そのうちやむからいいんじゃないの?」
さも当たり前であるようにそう言った。
そのときの彼女の言葉が、いまでも頭の中に繰り返され、そのたび私は思わず「え?」と声が出てしまう。
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雨は、やむからこそ喜べる。
いくら水が必要な作物であっても、やまない雨を前にしたら根腐れして枯れてしまう。
逆に快晴ばかりもまた、干ばつの危機に瀕し、枯れへと繋がる。
どんなに必要なものであっても、過剰は身を滅ぼす原因となってしまうものだ。
雨が降ったら、やむ。
やんで、曇りや晴れの日があるからこそ、恵みの雨と喜べる。
何事も終わりがあるからこそ、良いのだろう。
ガールフレンドの主張に頷きたくなる一方で、雨降りの先生の「すべて平等に雨が降っている」という言葉の主張もわからなくはない。
雨が降っている範囲(屋内を除く)は、等しく濡れる運命だ。
雨の前では、偉い人だとか、子供だとか、男だとか、女だとか、何かである理由で差別されることはない。
きっと、先生にとって雨とは理想的な平等を体現しているものなのだろう。だからこそ、現実的な彼女の言葉に対して「え?」という反応に繋がったのかもしれない。
どちらの考えも一つ一つを見れば間違いではないけれど、肝心な部分で絶妙にすれ違う。
案外、そんなすれ違いばかりがこの世界では起きているのかもしれない。
理想と現実を纏った雨の季節─梅雨は、もう間近だ。
6/1/2024, 1:39:45 PM