ふと思い立って、ホームセンターで頑丈そうなロープを買った。会計の時に訝しむような視線を浴びせられたが、素知らぬ振りをして、あたかも本当に必要だったから買っただけ、を装った。
いざ自宅にロープが存在すると、中々の違和感がある。しかし、それ以上の安堵感が心を満たした。これがあれば、これさえここに置いてあれば、いつだって僕は、この嫌なことだらけの世界を忘れられる。不穏な安心感は、何より僕を安定させてくれた。
毎日のようになくなる上履きも、もう殆ど読める文字の無い教科書も、帰ると聞こえる両親の争う声も、散らかった部屋に湧いた蝿の影も、全部が嫌で、忘れたくて、それをあのロープは叶えてくれる。僕はロープを買った日から、ほんの少しだけ気楽に息ができるようになった。
そんな日が、しばらくは続いていた。嫌で、醜くて、でも普段通りという安定感を纏った日常。どんなに嫌なことも、日常に組み込まれてしまえば、無くなったときは違和感が勝るようになるのだ。
なぜか僕へのいじめはぴたりと止んで、両親は嘘のように仲睦まじい夫婦になった。突然すぎる変化に僕はついていけなくて、苦痛が無くなった苦しみよりも、日常が崩れた不安感が勝って、以前にも増して周囲の視線が気になるようになった。
もうどこも痛くないし、夜な夜な聞こえる怒声に耳を塞ぐこともない。どこを探しても無い痛みがどうしようもなく怖くて仕方なかった。
けれど、あのロープは。あのロープだけは、僕に唯一、前と同じような、以前思い描いていたものと同じような苦痛を、変わらず僕に与えられる。
僕はその日、ロープを買った時と同じように、ぼんやりと、ふと思い立って、天井の梁にロープを掛けた。ずっと昔に調べた結び方を思い出して輪を作り、首をかける。
椅子を蹴り倒すと、全体重が首にかかって、関節がめきりと嫌な音を立てた。血流も酸素も脳に回らなくて、頭が膨張するような幻覚を覚える。吐きそうで、でも声すら出なくて、僕は僅かな息の漏れる音だけを零しながら泣き喚いた。
藻掻いて、でも誰も来なくて。安堵感と不安感、恐怖と醜い快楽がごちゃ混ぜになった頭は、何度も抱え続けた疑問を、まだ捨てきれず抱いていた。
テーマ:どうして
1/15/2026, 8:24:51 AM