明日は有給休暇だ。躍る胸裡を隠し切れず、その余勢はわたしの口角を上げていただろう。有り余る心の余裕というやつが、わたしをして満員電車に付き物の狂騒さえ涼やかに通り過ぎさせる。のみならず、いくらか弾むような足取りで、わたしは軽やかに改札を出るのだった。
ファストフード店の混雑も厭わずに、わたしは列に並んでお気に入りのハンバーガーを買う。もちろん、明日は家から出たくないがために、二食分の量を袋に提げて店を出て――駅前の横断歩道の白線も、切り替わる信号の燈も、擦れ違うひとびとの顔も、街のすべてがきらめいて見えてくる。
いつも通る交番脇の交差点を折れた時だった。どういう訳か、朝には無かった工事車輌の群れが据え置かれている。もう日は沈んだというのに、脇侍の如き工員を従え、轟音を打ち鳴らして圧縮し、或いは掘削して已む様子はない。
浮かれ切ったわたしには「歩行者迂回」の言辞も苦ではなかった。明日は――もっと言えば日付が変わって直ぐ〇時になれば、待ちに待ったゲームの新作が遊べるようになるからだ。
まだこの街に暮らすようになって一年と経っていないわたしは、立ち止まって、スマホの地図アプリを開く。経路を確かめると、少し先の路地に入って、間もなく閉園時間の来る大きな庭園を抜けていくのが近道と分かった。
家に帰ったら、シャワーを浴びて食事を済ませ仮眠をとって――いや、食事を先にやっつけるか――なんて、独りで新婚夫婦のような自問自答を繰り広げながら、わたしは街燈の少ない路を歩いていく。
わたしの住まう小さなマンションは、この谷あいの住宅街を数分歩いた谷底に位置する。わたしの心は、この細く行き止まりの多い道――クルドサックというやつ――の暗さとは全く反対に、素晴らしく明るく、色で言えば差し詰め綺麗な赤色で――と考え出した頃だった。
遠くの方から、サイレンの音が聞こえてくる。消防車のそれに違いなかった。わたしは依然上機嫌で、開放された庭園の門を潜る。ほとんど照明の置かれていない元武家屋敷の園内には、多様な植物が植わっていて、ともすれば不気味な印象を与えた。
暗闇の中でより一層重い黒さと映る樹々の間から、ふと我が家のある方を見遣ると、空が妙に明るく揺らめいている。
火事だろうか――生来能天気なわたしの心裡にも一握の不安が募った。わたしの住むマンションが――いや僅かに六世帯ほどの小さなマンションだぞ――それに、わたしを除いて五世帯の内で、そのどれもが在宅という訳ではないだろうし――だが、わたしが何か失火の原因となることを仕出かしたことは?――例えば、ガスコンロを消し忘れたとか、コンセントが劣化していたとか、ケトルが壊れているのに気付かず、スイッチが入りっぱなしになっていたとか、何かのバッテリーが発火したとか――今の今まで享楽に充たされていたわたしの心は、丸っきり対蹠の色調を帯びた聯想によって疲弊し、窒息しそうになっていた。
わたしは家の方の出口へと走った。葉擦れの音が不快に響く。サイレンの音が確実に近く聞こえる。闇の中、息を切らして辿り着くと既に金属製の門は閉ざされていた。わたしはここで何かが燃えるような、焦げ臭い匂いがすることに気付いた。家の方を諦視すれば、確かに空は赤く、仄かに煙のような筋が上がっている。
わたしはその場にへたり込んだ。すると、目の前の路を慌てた様子でひとが走って行った。わたしには声を掛ける気力さえなく、その様子をただ見過ごした。
しばらく呆然としていると、不思議なことに、わたしの心がそのまま映し出されたような光景を見て、わたしはどこかで安楽を感じ始めていた。諦めというのか、類感呪術というのか、或いは魔術というのか、とにかく、わたしはゆっくりと歩きながら、もと来た道を戻ることにした。
そうして歩いていくうちに、わたしの想像の中の自宅ははっきりと燃え上がり、黒煙を上げ、消防隊員の必死の散水も空しく焼け落ちていく。囲繞する人むらは各々の手に持った端末やらカメラやらで、わたしの泣き叫ぶ姿を写真に映像に収めることだろう。そして、わたしは失った財産や時間を埋め合わせることも出来ずに、ただ新聞紙の社会面にその存在を刻むことになるのだろう。わたしは、大きな歴史の中の小さな事件として、誰にも語られることのない人生を送り続けるのだろう。
わたしは園内の坂を上りながら、静かに、声もないままに涙を流し、明日のことを考えていた。ふらふらと歩くたび、ハンバーガーの温もりが膝へぶつかった。
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おうち時間にやりたいこと
5/14/2023, 12:14:19 AM