望月

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《手放す勇気》

 自分にとって居心地が良い場所を手放すのは、途轍もなく勇気のいることだ。
 あたたかく迎えてくれる場所というのは、言葉にするよりも深く心に刻まれている大切な場所なのだ。
 だが、そんなことは。
「……早く逃げろ!」
 悪魔にとってはまったくと言っていいだろう、気にするべきことではないのだった。
 悪魔。
 魔界という未開拓の異次元から突如として現れる、不可思議かつ最悪の存在。
 彼らは妖しげな力を行使して、ふとして夜にやってくるのだ。
 人は、いつしかそれを、悪魔術——魔術、と呼んだ。
「ひ、ひいぃっ……!」
「やめろ、やめてくれえッ!」
 悲鳴が方方から聞こえ、否が応でもその修状が現実だと理解させられる。
 身を斬られた痛みに喘ぐ人。
 右半身を失い流血に嘆く人。
 家族を目の前で失い叫ぶ人。
「ぐあぁあああッ……か、はっ……」
 今、体を裂かれ事切れた人。
 抉られた視界に絶望した人。
 痛みに心を喪って黙した人。
 そういう人たちの頭上に浮かぶ、夜の闇を凝縮したかのような黒い羽を有した化物。
 たった一体の悪魔が、街を悪夢に陥れて嗤っている。
 殆ど直感で、これは、死んでしまうのだな、と誰もが思った。
 そんな中、崩れた家屋から現れた青年が一人。
「……ごめん」
 衣服に付着した埃を払って、ぶつぶつとなにかを呟き始めた。
「真なるものは目に映らず、真なる音は耳に聞こえず」
 視線を地面に落として、まるで頭上に君臨する悪魔の存在に気が付いていないと錯覚するほどの集中を見せる。
 いや、地面に倒れている友人を見て顔を歪ませた辺り、周りが見えていないわけではないようだ。
「真なる調べは他に知らせず、真なることは他に知られず」
 たかが一人、だが、この状況では酷く異様だ。
 目的の場所でもあるのか、青年は迷いなく進んで行く。
「真なる其れは清きこともなく、穢れですらない」
 そこで漸く悪魔が、その矮小かつ愚かな存在に気が付いた。
 この状況で立って、歩いて、悪魔の存在を気にもしない人間がいるとは予想だにしなかったからだ。
「真なる幾ばくもの其れは、偽りの後に存在する」
 興味が湧いたのか、はたまた邪魔に感じたのか。
 悪魔が青年に矛先を向けた。
「成るは、【解放】」
 悪魔の毒々しい爪先が青年に迫り、
「【凍結】」
 その姿のまま、まるで絵画に閉じ込められたように動かない悪魔がそこに在った。
 青年の言葉に従って、凍結してしまったのだった。
「……人間だからって、魔術が使えないと思うなよ」
 そこでやっと青年が振り返ると、悪魔の奥に恐怖で顔を青くしたままの町の人達がいた。
 街が好きで、五年過ごしたこの場所は大切だったというのに。
 青年はこの力が周知のものとなってしまった今、もうここにはいられない。
 魔術とは本来、悪魔しか行使できないもので、青年が扱ったそれは同質のものに見えただろうから。
「早く、覚悟を決めれば……誰も死ななかったかもな」
 小さな声での後悔は、きっと誰にも届かなかっただろう。
 青年は肩を落として前を向いた。
 いつかこうなるとは思っていたのだ、なに、今更だ。
「さようなら。……ごめんなさい」
 悪魔の力を有した、半魔の青年はそう残して去った。
 後にはただ、街の残骸と数多の死傷者、凍結した悪魔が残されたのである。

5/17/2025, 10:01:43 AM