#勿忘草(わすれなぐさ)
唐突に、昔のことを思い出した。
引っ越しの荷造りをしている最中だった。本棚の奥から児童書を一冊引っぱり出すと、ひらりと
何かが床に落ちた。
半分に折ったティッシュだった。
中になにか、挟まっている。
押し花だ。
まっすぐのびた茎の先に、ちいさな星形の花が集まって咲いている。子どもが見よう見まねでつくったものだった。カサカサにひからびて、茶色く
変色している。もとは青い花だったらしい。
その青色には、見覚えがあった。
森の奥の、ぽっかり明るい陽だまり。いつも青いワンピースを着て、岩の上に座っていた、髪の長い女の子。
子どもの頃、わたしは数ヶ月ほど、田舎に預けられていたことがある。
問題のある家庭だった。両親は毎晩ケンカをしていて、飛んでくる怒鳴り声や灰皿や拳から逃げるため、わたしは自分の部屋に閉じこもっていた。学校にも行かなくなった。もともと神経質な上にストレスで過剰に攻撃的になっていたわたしと、上手くつきあえる小学生はいなかったから。
田舎の親戚の家でも、わたしは孤立していた。
人間不信をこじらせて、部屋に閉じこもって本を読むか、こっそり家を抜け出して人のいない森の奥で泣いているか、毎日、そんなことをしていた。その女の子に出会ったのも、独りぼっちで森を歩いている時だった。
もの静かな、おっとりした子だった。
彼女の声も、二人でなにを話したかも、思い出せない。それくらい大人しい子だった。わたしとは、妙に波長があった。会話がなくても、別々のことをしていても、彼女のそばに座っているだけで、穏やかな気持ちになれた。花かんむりを編むのが得意で、わたしにもやり方を教えてくれた。わたしが編んだ不器用な輪っかを見て、上手だと笑ってくれた。彼女の笑顔が好きだった。はじめてできた、友だちだった。
それから色々あって、わたしは母に連れられて都会へ引っ越した。
新しい街、新しい学校での生活が忙しすぎて、手紙を書くと約束したのに、結局一度も出さなかった。そのまま、今の今まで忘れていた。信じられないくらい薄情者だ。
十数年ぶりに、親戚の家を訪ねた。
可愛げのない子どもだったはずなのに、大きくなったね、と迎えてくれた。
彼女のことを聞いてみた。わたしと同じ年頃で、当時この辺りに住んでいた女の子。手紙を出すはずだった連絡先は紛失していたが、住人の少ない地域だから、すぐわかるだろうと踏んでいた。
笑顔でもてなしてくれていた親戚夫婦が、困ったように顔を見合わせた。
あのね、と奥さんの方が、慰めるように教えて
くれた。
「この辺りにいた子どもはね、うちの子たちと、お向かいの兄弟だけなのよ。みんな男の子。会ったことあるでしょう」
信じられなかった。
あの女の子と遊ぶようになって、わたしは少しだけ、口数が増えた。森で会った子に教わったんだと、花かんむりを見せたこともあった。わたしが話す彼女のことを、親戚夫婦は笑顔で聞いていた。実際は、わたしが頭の中の見えない友だちと遊んでいるのだと同情して、指摘しないでいたらしい。
あの森へ行ってみた。
いま思うと、おかしな所は色々あった。
彼女の声を、聞いた覚えがない。いつもおなじ青いワンピースを着ていた。森の外で見かけたことが、一度もない。
森は、どこにもなかった。
消えてしまったわけではない。子どものわたしが森と呼んでいたのは、ただの雑木林だった、それだけだ。神秘的に見えていた秘密の原っぱも、倒木によってできた、ちっぽけな空き地でしかなかった。わたしが腰かけていた切り株は見つかったものの、彼女が座っていた岩は、どこにもない。
呆然としているわたしの視界の端に、なにか青いものが映った。
花が群生しているのだった。
あの押し花の、花だった。ここへ来る新幹線のなかで検索した。勿忘草と言うらしい。野原の隅に、取り残されたように咲いている。
その青色のちいさな花の絨毯が、ワンピースをひろげて座っている、あの女の子の姿に見えた。
2/3/2024, 8:57:04 AM