「足元に気を付けて。」
前日の昼下がりに、男は女の手を取って川辺に立っていた。濃い緑色をした細い草と、小さな白い花が水面で洗われている。夏の午後は暑かった。足元の|清《さや》かな水音に目を細めながら、女はそっと顔の汗を拭った。
「わぁ、可愛い。」
溜め息のように囁く。水中に咲く花が珍しいのか、女の視線は揺れる川面に注がれたままだ。男がそっと手を引き、木陰を選んで平たい石の上に腰掛ける。
「清流にしか咲かない花だ。君はこんな山中まで来られないだろうと思ってね。」
「初めて見ました。」
女が顔を上げて微笑う。日光を避けたというのに、その瑞々しい顔は輝いていた。
男の余暇は貴重だ。低くはない地位に立って久しく、業務は決して少なくはない。そんな彼が女を連れて山の水源へ向かう気を起こしたのは、女が新しい単衣(ひとえ)を仕立てたと知ったからだ。近々開かれる宴の日、女は領主の近くに侍り唄と舞いを披露する。新しい衣装はその準備であり、女に芸を所望した領主からの賜り物なのだった。部下でも身内でもない女の仕事に、男は物を言える立場ではない。ましてや衣装を贈ったのは他でもない主君である。嫉妬心など抱きようはずもない。……ない、のだが。男はちらりと女の顔を見下ろした。汗が落ち着いたらしく、女は川の上を渡ってくる風の涼しさに目を細めている。白く優しい曲線を描く顔に、水面の光が照り返して揺れていた。
「明日はお互い忙しくなるね。」
新しい単衣で舞う女は、それは美しいだろう。一体どれだけの男がどんな顔をしてそれを愛でることになるのか。そこまで考えて、何を馬鹿なと男は静かに首を振った。
「——さま。」
女がまた微笑った。しかしその顔は何故か、先程までとは違う悪戯な色を帯びている。
「このことは、どうか秘密にしてくださいませ。」
言いながら、女は草履の紐を解いて足袋を脱いだ。驚く男をよそに、つま先を川の流れに浸ける。
「冷たくって、良い気持ち!」
――――パシャ。女の白い足が揺れ、水面を蹴って光る飛沫(しぶき)を作った。
「……駄目だよ、君。男にそんな姿を見せたら。」
目を奪われていたことに気付いた男が渋面を作る。男は女が時に見せる思い切った行動が苦手だ。それはいつも予測が付かず、防ぎようもなく彼の心を掻き乱す。女は男の苦言もどこ吹く風で、清い流れにつま先を泳がせながら言った。
「憂いも洗われるようです。どうぞご一緒しましょう。」
「憂い?」
「ええ。暑さも、嫌なことも全て。」
女の言葉を聞き、男の腹に何かがすとんと落ちる。嫌なこと……男が何を憂いたのか女は知らない。しかし交わした短いやり取りの中にそれを感じ取り、女は彼を気遣っているのだろう。それに気付くと、さっきまで色を帯びて見えていた女の仕草が何だか優しく暖かく感じられる。男はそれ以上何も言わず、組んでいた足を崩して足袋を脱いだ。
【素足のままで】
8/26/2025, 11:12:34 AM