結城斗永

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「すみません、まだ十六なので……」
 カウンター越しに差し出された琥珀色のグラスを見て、僕は小さく頭を下げた。
「あっそ、意外とマジメなのね」
 客からママと呼ばれている派手なワンピースの女性は、ヒキガエルのようなしゃがれた声で笑うと、グラスの中身をくっと喉に流し込む。
 ママさんの視線が僕に刺さるたび、『やっぱり来なきゃよかった……』と後悔が胸をかすめる。

「――ママ、お勘定」
 隣に座っていた作業着の男が財布を取り出すと、ママさんが物惜しそうに肩をすくめる。
「なによ、もう少しいたらいいのに」
 作業着は何も言わず、バツが悪そうに僕をちらりと見る。
「あぁ、茂さんとこのお坊っちゃんだって。わざわざ遠くから来たみたいだけど、気にしなくていいわ」
 ママさんはたばこの煙を吐き出しながら投げやりに言った。
「そういや茂さん、最近見ないなぁ。あの女と駆け落ちでもしたかな……」
 そこで作業着は『しまった』と顔を歪め、ママさんに軽く声をかけると、カウンターに紙幣一枚だけ残して足早に店を出ていった。

 一ヶ月ほど前に父が失踪した。
 営業職だった父は出張で家を空けることも多かったが、出張先からも毎日電話をしてくるほど家族想いだった。
 夜は飲み歩くこともなく、仕事終わりにはまっすぐ家に帰ってくる。
 日曜日には率先して家事も行い、僕の宿題にも付き合ってくれる。母親ともとても仲が良く見えた。
 少なくとも僕の目から見れば、根っからのマジメ人間。
 だから、人づてにこのスナックの話を聞いた時には、別人と間違ったのだろうと疑ったほどだ。
 
 扉が閉まると、二人だけの店内は異様な静けさに包まれた。
「ったく、商売あがったりだよ」
 ママさんがそう言ってタバコをふかす。
「すみません……」
 僕が頭を下げると、ママさんは大げさにため息をついた。
「で、ここに来ればお父ちゃんに会えるとでも思ったのかい」
 ママさんの言葉に僕はただコクリと頷く。ママさんは少し困ったような顔をして、まだ半分ほど残っていたタバコの火を灰皿に押し付ける。
「――こっちも困ってんのさ。ツケも払わずに突然消えちまってさ……」
「えっ……」
 ――女と駆け落ち? ツケも払わず……?
 これまでの父親像が黒く塗りつぶされていくような心地だった。

「お母ちゃんは知ってんのかい。あんたがここに来てること」
 ママさんの声でふと我に返る。僕は言おうか迷ったが、意を決して口を開いた。
「入院したんです。父がいなくなってから、体調を崩して……」
 ママさんの視線に憐れみを感じて、僕は思わず視線を落とす。
「母方の親戚には頼れる人もいなくて、僕ひとりではどうにもできなくて……だから」
 その先を口に出そうとして、思わず言葉に詰まる。喉の奥に大きく膨らんだ何かがつっかえて、息が苦しくなる。ふと、ママさんが僕の頭に軽く手を添えた。
「あんた、よくここまで来たよ……」
 ママさんの若干震えた声に、僕の中の何かが弾けて一気に涙があふれてくる。
「あたしも、茂さんにはツケ払ってもらわなきゃなんないからね――」
「ママさん……」
 顔を上げると、ママさんは芯の通った目で優しい笑みを浮かべていた。
「一緒に探してやるよ。あんたのお父ちゃん」
 父親の本当の姿を知るのは怖いけど、ママさんがいれば、それも受け入れられるような気がした。
 僕とママさん、二人だけの店内に温かい静寂が流れる。
 袖で涙をぬぐいながら、僕は何とか笑顔を作ってママさんに返した。

 こうして、僕とママさんとの歪(いびつ)で不思議な旅は、向かう先も分からないまま静かに動き出したのだった。

#センチメンタル・ジャーニー

9/15/2025, 1:25:43 PM