「喉渇いてないか?」
そう言って差し出されたのは、冷えたラムネ瓶。
俺は首を横に振って「いらない」と拒んだ。
だけどあいつは俺の頭を掴んで、無理やり
瓶の口を押し付けてきた。
炭酸が喉に流れ込み、噎せ返る俺を見て、
あいつは満足げに笑う。
「な、おいしいだろ?」
――
ある日、本棚で一冊の絵本を見つけた。
「人魚姫」――恋に破れた人魚が
泡となって消える、悲しい物語。
「お前、人魚になりたいのか」
ページをめくっていると、背後からあいつの声が
降ってきて、俺の体はびくりと強ばった。
「人魚ってさ、水の中でも息ができるん
だってな。……試してみるか」
気づいた時には、俺の頭は水を張った浴槽に
押しつけられていた。必死にもがいても、
顔を押さえつける腕の力は緩まない。鼻と口から
容赦なく水が入り込み、肺が焼けるように痛む。
何度もやめてくれと懇願した。
だけど、あいつはそれでも止めてくれない。
そうだ。あいつはいつも、
俺が苦しむ姿を見て笑っていたんだ。
――
「体洗ってやるよ」
俺が風呂に入ると、あいつも一緒にやってきた。
あいつが手にボディソープを垂らすと、
桃の香りが狭い浴室内に広がり、泡立てた手が、
俺の体を這うように滑っていく。蛇に捕食される前の獲物のように、俺の体は硬直したまま動かない。
あいつの手が、ゆっくりと下へ降りていく。
そして、泡のついた指が、粘膜に触れた。
ああ、泡になりたい――。
一刻も早くこの時間が終わって欲しい。
苦痛の中で、ただそれだけを考えていた。
神様に祈りが届いたのか、
ある日を境にあいつはいなくなった。
まるで泡のように、跡形もなく。
やっと悪夢から解放される。
だが、これで終わりではなかった。
俺は、泡が怖くなった。
誰かが飲む炭酸、ボディソープの泡、
ぶくぶくと音を立てるジャグジー。
泡を見るたびに、あいつが蘇ってくる。
お前は逃げられない、
そんな声が耳の奥でまとわりつくみたいに。
――
話し終えると、彼女は黙って俺を抱きしめた。
「……辛かったね。よく頑張ったね。大丈夫。
もう、その人はいないから」
彼女の温もりと優しい声に、俺の目から涙が滲んだ。落ち着くまで、彼女は何度も背中をさすってくれた。
🎶お風呂が沸きました~
軽快な機械音声が部屋に流れた。
彼女はそっと俺から身を離し、微笑む。
「ごはん食べて、お風呂に入って、
あとは二人でゆっくりしようね」
俺は小さく頷いた。ずっと胸につかえていた
しこりのようなものが、ようやく取れた心地がした。
キッチンへ向かう彼女の背中を見送り、
俺は脱衣所で汗を吸ったTシャツを脱いだ。
――ぶくぶく。
音がした。
瞬間、全身が凍りつく。
風呂場の方からだ。
震える手で、浴室の扉を開く。
そこには、静かに水を張った湯船があるだけ。
少しも揺れてなどいない。
「ちょっと来てくれるー?」
リビングの方から彼女の呼ぶ声がする。
気のせいだ、きっとそうだ。
そう自分に言い聞かせて、
俺はリビングへ向かった。
誰もいなくなった浴室では、湯の表面が――
ぶくぶくと泡立ち始めていた。
まるで、何かが……水面の下で息づくように。
お題「泡になりたい」
8/5/2025, 5:50:18 PM