花とコトリ

Open App

「失われた響き」

愛犬クロの寝息は、まるで静かな海の波のよう。
規則正しく、柔らかい。
この響きだけは、いつでも私に届く。
失われない。

昔は、もっとたくさんの音が聞こえていた。
世界はざわめいていて、人々の声や、街の喧騒、
自分の心の焦燥までが大きな音を立てていた。
それは、何かに「なろう」としていた頃の、
前のめりな響きだったのかもしれない。

ある時、ふと、気づいた。
そのほとんどが消えてしまったことに。
失われた響きを探す必要は、もうない。
大切なのは、今聞こえている、
この小さな、確かな音だけだ。
クロの鼻息、窓を叩く雨粒。

私は、その音を横に並べていく。
小石を積むように。ひとつずつ。ていねいに。

この部屋にある、極小の輝き。静かな幸福。

11/29/2025, 1:39:17 PM