夜雨と春歌

Open App

【君の奏でる音楽】



 トン、トン、トトン、トトン、トン。

 本を読みながらイヤホンで音楽を聴いている夜雨の、左手はページを繰りながら、右手の指先がリズムよく机を叩いている。
 夜雨は人前で歌うことを嫌がるので、長い付き合いの春歌でも、鼻歌すらほとんど耳にしたことがない。
 だから、人がご機嫌なときに歌を口ずさむ代わりに、夜雨は爪先で机を弾いて音を鳴らした。
 何か良いことでもあったの? 訊いてみたいが、天邪鬼な夜雨は、「別に」と答えて唇の端を少し上げるだけだろう。
 イヤホンから流れる、どんな音楽に合わせて指を踊らせているのか。当然春歌には聞こえるべくもないから、奏でられるそれは、名前のない歌だ。

 トン、トン、トトン。
 切り揃えられた爪先が最後の一音を鳴らし終えるまで、春歌はじっと、夜雨の歌を見つめていた。

8/12/2023, 8:47:10 PM