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『ありがとう、ごめんね』

 _____ありがとう、ごめんね。

 君はそれだけ言って窓の外に身を投げた。僕はただ呆然とその光景を見つめていた。
 傾いでいく君の身体はスローモーションのようにゆっくりで、けれども僕の身体は時が止まったかのように動かなかったものだから、僕はそれを止める術を持たなかった。音の波さえ速度を無くしたようで、その瞬間、確かに世界は僕と君との二人だった。

 窓枠という額縁に君というモデルがいなくなった一瞬後、一息に音と速度を取り戻した世界で、僕だけが取り残されていた。ドラマのような悲鳴と訳知らぬ人々のざわめき。ぐわっと耳に押し寄せてくるようでどこか遠くに聞こえるそれに、やがてサイレンの音が混じっても、僕はその場に立ち尽くしたままだった。
 最後に見た君の微笑みと揺れる黒髪の幻影が、狂ったように何度も窓枠のスクリーンに映し出される。君の唇が紡いだ最期の音が、僕の頭の中にうるさいほど静かに反響した。

 _____ありがとう、ごめんね。

 君と同じ台詞を形だけ繰り返してみても、君の真意は分からなかった。今日の予定も明日の約束も、そのずっと先の誓いさえすべて破棄されてしまった僕は、この先何を信じて生きて行けば良いのだろう。何を信じて生きて行けと言うのだろう。
 口約束も指切りも書面での大仰な契約も、すべて君を繋ぎ止めるには足りなかった。あるいは悪魔でも呼ばぬことには、君の信頼には不十分なのかもしれなかった。

 _____ありがとう、ごめんね。

 君は何に対して感謝して、何に対して謝ったのだろう。そもそも、果たして本当に僕に向けられた言葉だったのだろうか。
 安い推測はいくらでもできて、僕に都合の良い解釈をすることも簡単だ。本当のことなどもう確かめようもないのだから、それなりに自分が納得できそうな理由を並べ立てても良いのかもしれない。それでも僕に思いつくような推測はすべて、何ひとつ君の心をとらえてなどいないような気がするのだ。

 _____ありがとう、ごめんね。

 その言葉に込められた意味を知る日が来たのなら、その時こそ確かに、僕は本当の意味で君を理解できる気がしている。

12/8/2023, 5:21:28 PM