『木漏れ日の跡』
俺はこの日、何ヶ月もかけて描いた絵で絵画コンクールに挑んだ。
『努力は必ず報われる』
という言葉を信じて、俺はこの日までずっとずっと絶え間ぬ努力を続けてきた。
周りの人達も、先生も俺の作品を素晴らしいと言ってくれた。
コンクールに出すテーマは決まっていた。テーマは『風景』。風景画を描けということだ。
風景画なら絵が上手ければなんでもいいだろう。とにかく立体的に、美しく、色鮮やかに。
俺は『晴海 (せいかい)』を描いた。題名だけで俺が何を描いたのか連想させるだろうが、その通り、海だ。
雄大で青い煌びやかな海。そして晴天の空。
俺はこの絵で勝負するんだ。
他の奴らは街並みだとか、木々だとかを描いているけど、壮大なスケールの絵でないとコンクールには優勝出来ない。
そして何より、皆が俺の絵を賞賛してる。先生でさえ、絶対これは入賞すると背中を押している。
そうだ。入賞して、俺の努力を親に、友達に見てもらうんだ。
そうして、絵を提出し、美術部では賞を撮れるかなーと浅はかな期待をする奴らの会話で埋め尽くされていた。
「なぁ!お前の海の絵!!すげー綺麗だったから絶対入賞するって!!」
「まぁ、寝る間も惜しんだから…入賞しないと困るよ」
「いや絶対するだろあれ!だってリアルすぎんもん!」
「はは、まぁ……ありがとう」
当然だ。どんだけ美術のこと勉強したと思ってんだ。勉強を疎かにしてまで俺は美術の腕を磨いたんだ。馬鹿みたいにな。
友達とも縁を切ったんだ。描くことだけに集中するために。もちろんクラスで孤立した。だが芸術家というのは常に孤独が付き物だろう。
睡眠不足とストレスで目眩やら頭痛やら吐き気やらが起こったが、無理やり薬を飲んで誤魔化して、大丈夫と心で唱えながら絵を描いた。
そこまでして描いた絵が入賞無しの暁には、俺は生きてはいけないかもしれない。
そんなことを考えていると、隣の席から女子達の話し声が聞こえてきた。
「桜ちゃんの絵は絶対入賞するよー!」
「うーん…そうかなぁ…」
「そうだよ!だってあの絵素敵だったもん」
「ふふ、そうだと嬉しいなぁ」
天咲桜(あまざき さくら)。この女は俺の敵であり、妬み、恨んでいる人間でもある。
彼女の描く絵は必ずと言っていいほど入賞している。毎回金賞だ。そして、美術館に飾られている。
彼女の描く絵は魅力的なんだ。絵の上手さは勿論ながら、観察力が凄まじい。光、影、質感、形の微妙な変化……彼女の絵は写真に近く、本当に素晴らしいと言わざるを得ない。
彼女の絵を見る度にハッと息をのまれる。しかし、それと同時に俺は腸が煮えくり返るような憎悪に襲われる。
天咲桜は優等生。頭も良く、友達も多い。彼女とは同じクラスだから分かるが、沢山の友達に囲まれて毎日が笑顔いっぱいの日々を過ごしている。
俺とは対照的だ。全て美術に費やし、勉強も友達も疎かにしたってどうしたっても彼女を超えることは出来なかった。
俺だって入賞はしたさ。銅賞?銀賞?惜しくも金には届かなかった。邪魔な桜がいるから。
彼女を超えさえすれば、俺は芸術科の学校に進学できる。金賞をとって、美術館に飾られる。そう、両親と約束をした。
桜が色んな人達に信頼されてるのを見ていると、虫唾が走る。俺は窓の外を見てため息を吐く。
すると、桜の意外な一言が聞こえた。
「でも晴太君の絵だってすごく素敵だったし、絶対晴太君も入賞するよ」
そう、女子に話していた。
「あーたしかに!晴太君の絵もすっごい綺麗だったもんね!!海のキラキラした感じとかさ!」
「ね、とても綺麗だよね」
この褒め言葉に対して、素直に嬉しいと思えないのは何故なのか?理由は簡単だ。
『おまえのほうがはるかにすぐれているだろうが』
その一言が俺の頭の中を過ぎった。
俺は性格が悪い。美術で1番になることしか生き甲斐はない。誰かのために描くだとか、好きで描くとかそんなのではない。
人よりちょっと描けるから、そこに磨きを入れてるだけ。俺みたいに、本気で描いてもないような桜が、なぜ毎回金賞をとるのか理解に苦しむ。
俺は桜の方を睨んだ。
すると、桜は俺の視線に気付いたのかこっちを向いて少し驚いていた。
「……え?あ……」
少し戸惑ってる彼女に、俺は嫌味を言った。
「…入賞できる?金賞ばっか取っている人間に、俺の努力なんて分からないだろ。
高みの見物でもしてんのかよ?自分はどうせ金賞を取れますから、俺でも入賞できるレベルだよーって」
「え…………」
俺の言葉に女子達は静まり返る。
1人の女子が俺に牙を向いた。
「ちょっと何その嫌味。うざいんだけど。」
「そうだよ!なんでそんなこと桜ちゃんに言うの?」
俺も女子に負けじと言い返す。
「あのな?こんな奴に褒められて良い気すると思うか?はるかに自分達より上にいるコイツにだぞ?
鼻くそほじりながらでもコイツは書けば金賞。金賞。金賞…そして、俺の作品を露骨に褒める時もある。
は?ってなるだろ?王者の余裕かよ?なんなんだよ?俺からすれば煽ってるようにしか感じないんだよ」
イライラして、声を少しずつ荒らげる。いつの間にかクラスは俺達の言い合いの声で埋め尽くされていた。
周りの奴らの視線が気になるかもしれないが、それよりも俺は桜のウザイところを吐きまくった。
「はぁ!?金賞とってるから他人の作品褒めちゃいけないなんてことないでしょ!?」
「頭おかしいんだけど!!」
「どうやったらそんな考えになるわけ!?」
「お前らモブ女子は銀も銅も取ったことないからわかんないだろ!!才能の無い入賞したこともないような奴らには分かんないだろうよ!!」
「いやそんな声荒らげるレベルになるんだったら別に入賞なんてしなくて結構なんだけど」
「そうよ。別に入賞したいから描いてるんじゃないから。好きで描いてるんだから」
「好きで描く?ならコンクールに参加してねぇでテメーらは授業中にノートにでも落書きしてろ!!」
「はぁ!?!?!?なんでそんな考えになんの!?頭おかしいんじゃないの!?」
エスカレートしていく女子と俺との言い合いに、たまらず周りの奴らも止めに入る。
「まぁもうやめろって…そんな言い合いしたとこで」
「喧嘩なんて良くないよ」
しかし、向こうの女子の一言で、俺は机をひっくり返すレベルになった。
「そんなだから桜ちゃんの絵を越えられないんだよ」
「あぁ!?テメェ!!!!!」
絵だけの為に睡眠を削って、進学の為に死ぬほど描いて、友人と縁を切って、勉強よりも絵を優先して、そして銅、銀。
確かに、努力は簡単に実らないかしれない。しかし、努力してないで適当な絵を描いてへらへらしてるお前ら女子よりは俺は何千倍も何億倍も絵に命をかけている。
それを無下に扱われるのは腹が立ってしょうがなかった。
暴れる自分を抑える男子達。女子達は俺の血走った目を見て酷く動揺し、ドン引きしていた。
自分でも後から、なんであんなに自分の絵に拘っていたのだろうと疑問に思う。
でも、死ぬほど努力して、中々それが実らない時は人は追い込まれてる気がして、すごく怖いんだ。俺の場合は進学という目的が控えてるから。
次の日の放課後、今日は久々に部活無しで帰れるのだが、俺だけは帰らず、イライラしながら1人で美術部に残って昨日あった出来事を思い出しつつ、筆を動かす。
いつもは風景画、静物画、人物画しか描かないが、今回は抽象画を描くことにした。
暗い赤、黒、濃い青など、怒りや苛立ちを表す色が中心とし、一部に鋭い黄色や白を差し込んで、衝突や焦燥感を表現する。
鋭くて角ばった線、ねじれた渦、乱れたジグザグ。線の勢いを強くし、キャンバス全体に緊張感がみなぎるような作風にする。
整った形はほぼなく、衝突と混乱の印象を与えるかの作品に仕立てあげた。
人は怒りで満ち溢れていると暴走するとは言ったものだが、俺の場合はキャンパスいっぱいに広がるこの闇がまさにそのものだろう。
ものの数十分で見事『怒号』という作品が出来上がった。これは誰にも見せることは無いが、描くというのはやり気持ちが良かった。
夕日が差し込む窓の外を見る。校舎は夕焼け色に染まり、そして空もまた、オレンジ色でとてつもなく綺麗な色だった。
心を少し落ち着かせるために、空を見ながら深呼吸をする。
「……えっと、なにしてるの?」
「!!!」
急に声をかけられ心臓が飛び出そうになり、バッと後ろを振り返る。
「あっ!ごめんね、驚かせちゃって」
そこに居たのは天咲桜だった。すぐに冷静さを取り戻し、冷たい口調ですぐに言い返す。
「……部活休みだろ。何しにここに来たんだよ」
「あ…ちょっと忘れ物しちゃって…」
「忘れ物?」
「うん。今日美術の授業した時に教科書ここに置き忘れちゃってて…えーっと」
そう言って机の中をごそごそ確認し、教科書を手に取る。
「あった!これこれ!」
そう言って教科書を見せる。
「ふーん」
そう言って俺はまたキャンバスに目をやる。
俺はもう一度自分の描いた絵をマジマジと見ると、その絵がどれほど異常なものなのか理解ができた。
さっき描いたものとは思えないほど、そこには憎悪とか、悪意に満ち溢れたような絵が広がっていた。いや、さっき自分で描いていたものには間違いないのだが…少し気持ちを落ち着かせて見てみると、やはり不気味だった。
俺が絵を見てると、桜がヒョイっと後ろから顔を出す。
「絵を描いたの?」
「わっ!!」
俺は咄嗟に描いた絵を隠した。
「あ…見られるの嫌だった?」
「……あぁ」
「でもすごく上手だったよ?」
「……見たのかよ」
「うん、少し…ごめんね」
「………………」
なんというか。彼女のほんのりとした雰囲気というか、優しい声色というか、それが全部力が抜ける。あんなにも妬み、恨み、憎しんだ桜とワンツーマンで話すのは意外に初めてかもしれない。
「…………絵を描いた…」
「うん」
「……ただ、人に見せられる絵じゃない」
「え?もしかしてエッチな…」
「そういうのじゃない」
「ふふ…冗談だよ。ごめんね」
ニコニコと話す桜の顔を見て、俺はため息を吐く。
「……これ」
俺はそう言ってキャンバスから身体をどかした。桜は、暗い色いっぱいに広がるどうみても病んでるであろうその絵をマジマジと見た。
「……こんな絵はなんの意味もない…どこかに出す訳でもない……ただ描いただけ。
……感情のままに」
そう言いつつ、彼女はおー…と、驚いた顔をしながら絵を見てた。
「……引くよな。こんな気持ちわるいの」
俺自身も少し引いたような感じでそう言うと、桜は思いっきり首を振った。
「いや…ホントすごいよこれ!」
「……は?」
俺が彼女の意外な反応に呆気に取られてると、桜は続けて俺のこの絵を褒めちぎった。
「線の勢いも色の重なりも、晴太くんの感情そのものが飛び出してる感じで…すごく見てるだけで、心が揺さぶられるっていうか…怒りや焦燥だけじゃなくて、何か叫びたい気持ちとか、諦めたくない気持ちも伝わってくる。だから…私、この絵を気持ち悪いなんて思わない。すごく、素敵だと思う」
真剣に褒める彼女を見て、なんか変に気が抜けて
「…なんだそら」
と言って少し微笑んだ。
「あ…今笑った!?」
「あ……?あぁ…ごめん」
「いや!笑って!沢山笑ってよ!!」
「……は??」
「…晴太くんが笑ったところ、見たことないから」
「……そんなもん見る必要ないだろ」
俺が冷たくそう言い捨てると、桜は首を振った。
「ううん、笑って欲しい。私、晴太くんがいっつも頑張ってる所しか見たことないから」
「……は?」
俺がまた困惑してると、彼女は窓の外を見ながら話した。
「……私、いつも部活の時に絵を描いてる時、晴太君のこと沢山見てた。
誰とも喋らず、一人で真剣に作品と向き合ってる晴太君を物凄く尊敬してる。
集中力も途切れず、トイレ休憩もなしで、水分補給もとらないで、ずっとずっと絵を描いてる晴太君を見て…本当の本当に、晴太君は芸術家なんだって思って。
自分はまだまだだなって」
「……まだまだ?」
「うん…私もね、絵を描くことを楽しんでるよ。絵に対する想いも本当。でも、集中は途切れるし、ずっと同じ体制で描き続けると背中も痛くなっちゃって筆を止めちゃうこともある」
「……でもお前は金賞取れてるだろ」
「……私、本当は金賞なんていらない」
「は?」
「好きで絵を描きたいんだ。でも、お母さんやお父さんが私は絵の天才だって言って、沢山絵を描けって強く言ってくるの…絵でご飯を食べていけるレベルだから、それを磨けって」
「……いいじゃないかよ、それ」
「ううん。私、自由に描きたい。縛られて描くのは嫌…だから私は出来るだけ反抗してる。
友達と遊んだり、勉強沢山したりして…でも、家では沢山絵を描けって…私のお父さん…美術大学の講師だから……」
「あ…そうなのか……」
「…………」
俯く彼女を見て、なんとも言えない気持ちになった。辺りの静けさがより一層この場の空気を寂しさを物語らせる。
彼女が下を向いたまま俺に謝ってきた。
「……ごめんね」
「え」
「…ごめん。昨日、あんな酷いこと言って……」
「え、あ、いやそんな」
「私…晴太君の努力も知らないで、そんな簡単なこと言って、嫌な気持ちにさせちゃったこと、すごく後悔して…晴太君が沢山頑張ってるのも、作品に本気なのも知ってるのに…軽い気持ちであんなこと言って、本当にごめんなさい」
そう言って深々と彼女は頭を下げる。
「や、やめて、やめてまじで」
そう言って桜に言うが、桜はそれでも頭を下げ続けた。
「…………」
俺はもう一度キャンパスを見る。先程の憎悪に満ち溢れた絵を見て、自分は何をやってたんだろうと思えてきた。
そして、そのキャンバスを俺は思いっきり倒した。
「!!」
倒れた音にびっくりした彼女が顔をあげると、そこにはキャンバスを踏みつける俺の姿がいた。
「え!ちょ、ちょっとなにしてるの…!?」
彼女が俺を止めようとする。
俺はそんな彼女の方を向いて頭を下げた。
「ごめん!!!」
桜は咄嗟に謝ってきた俺にビックリしていた。
「…桜の絵を見て、羨ましいとか、嫉妬とか、余計な感情ばかり抱いて、正直、素直に褒められなかった。…いや、褒めるどころか、心のどこかで、嫌な気持ちをぶつけてたし…昨日はそれが爆発して…酷いことを言っしまった。ほんとに、ごめん」
「そ、そんなこと…」
「いや、ある。あるよ。ほんとに」
俺がキャンバスの方を見ながら話を続けた。
「…俺、金賞取らなきゃ進学できなくて…だから、馬鹿みたいに絵を描いてた。寝る間も惜しんで、勉強もしないで、友達と縁切って……ずっと絵を描いてた。
親にさ、大した腕もないのに絵で飯なんか食えると思うなって言われて…見返してやりたかったんだ。
昔っから絵を描くのが好きで…それを仕事にしたいって思ってたから…」
「…………」
「分かってた…自分の身を削ってまで、良い作品なんかできるわけがないってことくらい。でも、馬鹿みたいに自信があったのは…努力は必ず報われるって信じてたから。
まぁでもさ!よく考えたら大した腕もないのに不健康な状態で描いてたってよくなるわけねーよな!ははは!!」
吹っ切れたように笑う俺を見て、桜は首を振った。
「ううん、報われる…絶対報われるよ」
「いや、どうだろうね…多分ない」
俺はキャンパスを持って、美術部を後にしようとすると、桜は俺の服を引っ張った。
「……まだ何か?」
「…私、晴太くんの描く絵が大好き」
「……ありがとう」
「…晴太くんは、絵を描くの好き?」
「…好きだよ」
「…私も好き。絵は誰かの心を動かすためにあるかもしれないし、1つの目的のために描くのもあるかもしれないけど…でも……私は……」
「…?」
「楽しむために描くものだと思ってる」
その言葉を聞いて、小学生の頃の自分を思い出した。描くことが好きで、よく休み時間も授業中も描いてたっけ。
でも、今みたいに取り憑かれてたわけじゃなくて…友達と遊んだりして、たまに友達に絵を見られて恥ずかしがって隠したり…で、それを褒めてくれたら見せたりして………。
淡い青春が、俺の頭の中を過ぎらせた。
俺はニコリと笑って、桜に感謝を述べた。
「……ありがとう」
俺の笑顔に引き寄せられるように、彼女もまた緩んだ優しい笑顔を返した。
そうして、校舎まで一緒に歩いて、別々の帰り道の為、そこで改めて別れることとなった。
「じゃあ…」
「うん、またね」
そう言って手を振る彼女に、俺も手を振り返して歩き出す。
数歩歩いて大きな声で彼女が俺を呼び止める。
「晴太くん!!!」
「!?」
「絵を描くのってやっぱり楽しーいよね!!!」
彼女の言葉に
「……もちろん!!」
と大きく返した。
コンクールの結果。
俺は金賞を取り、桜は最優秀賞を取った。
この学校で初の最優秀賞と金賞を取ったとして、新聞にも乗った。
美術館に立ち寄った時に、桜の絵を見た。
題名は『木漏れ日の跡』。
俺はその絵を見て、美しさのあまり息を飲んだ。
遠くから差し込む光を描いたのではない…木々の下を歩く人が上を見上げたとき、葉や枝の間から零れ落ちる光の一瞬を切り取った絵だった。
その光はまるで空気そのものが輝いているかのように柔らかく、儚く、美しかった。
細かい筆の跡や色の重なりを見つめる。
一枚一枚の葉に映る微かな光の変化、枝の影の揺らぎ。
描かれた世界の中に、確かに風や光、時間の流れまでが存在しているように感じられた。
本当に素晴らしかった。俺は、この絵を感動すると同時に、自分の心の奥で初めて嫉妬ではなく純粋な憧れを認めた。
その瞬間、胸の中にわずかな安堵と温かさが流れ込み、静かで優しい光が差したかのような感覚がした。
11/15/2025, 2:58:49 PM