水蔦まり

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第一話 その妃、悦に浸る
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 鬱蒼と生い茂る樹木に足場の悪い傾斜。昼間でも暗いこの小山を短時間で抜けるには、男でも相当山道に慣れていないと難しい。ましてや体力のない女子供など以ての外だ。

 その奥へと続く道なき道を抜けると、急に眼下へと現れる廃れた御殿。それが、とある妃の宮殿だと言われたところで一体どれだけの人間が間に受けるか。深山に隠されている時点で、帝からの寵愛は疎か、その存在も知られてはいないだろうに。


「……事の次第につきましては、追って使いを寄越しますので……」


 御簾の向こう側から聞こえる、鈴音のような耳心地の良い声。気配を消し、貴人を乗せたその輿が完全に見えなくなるまで見届けてから、宮殿の門を叩いた。



 離宮内はしんと静まり返っている。下女は疎か、主人を世話するはずの侍女ですらこの宮にはいない。その代わりの男が、帝の命により時々訪れる程度だ。


「眠れないなら、お茶でも淹れますよ」


 月光に照らされた、絹のように滑らかな白い肌。下ろされている濡羽色の艶やかな髪。形の美しい紅を引いた唇と、色っぽい目元の二連黒子。頬に影を落とす睫毛が持ち上がると、そこから現れる意志の強い瞳。

 目尻に此方を捉えると、この離宮の主人は嘲笑を唇に描いた。そう、この美人に嘘は通用しないのだ。



 頬杖を突きながら流し目を送る美人に、ほうと感嘆の息を漏らしてから、国の情勢を掻い摘んで報告する。専ら男の仕事といえば、こうして美人と色のない話をすることだけであった。

 しかし、今夜は少し様子が違って見えた。
 いつもなら「そうか」と言ってすぐに宮から追い出そうとするのに、いつまでも主人は、池に映った月を眺めている。


「いつもなら今頃夢の中なのに、随分とお優しいじゃないですか」

「非常に有意義だったからな」

「妬けちゃうなあ」

「面白い話はいつまで聞いても飽きない」


 なら、いつもすぐ下がらせる報告程度の話は、さぞかしつまらないのだろう。

 唇を尖らせながら下がろうとするが、やはり今夜は何かがおかしい。


「おぬしも聞きたいだろう?」


 何故なら、悦に浸った様子の主人が、真っ直ぐに此方を見つめていたからだ。

 こんな時間に、そんな状態で、こんな美人に出ていくのを引き止められて断る健全な男がいようか、否いまい。





 静かな二人だけの夜。
 この時はまだ、知る由もない。

 目の前にいる麗しのお妃様が、まさか腐敗した小国からの脱出だけでは飽き足らず、国家転覆まで企んでいようとは。



「おぬしも聞いていて損はないだろう」

「では僕も、とっておきの面白い話をして差し上げますね」

「期待はせずにおこう」

「存分にしてくださって結構ですよ」





 これは、誰も知らぬ御伽噺。

 やられたら気の済むまでやり返す破天荒者――後に『落花妃』と呼ばれる女の、亡国物語である。






#優しさ/和風ファンタジー/気まぐれ更新

1/28/2024, 9:36:56 AM