狼藉 楓悟

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 朝、無機質なアラーム音で目が覚める。手探りで探し当てけたたましく鳴り響いていた音を止め、のそのそとベッドから起き上がる。
 机の隅においてあったリモコンを手に取りテレビを付けると、今どきの小学生の将来なりたい職業ランキング、なんてものの上位をアナウンサーが読み上げ、コメンテイターがそれに一言二言添える。
 スポーツ選手、パティシエ、教師……動画クリエイター?
 ゲーム実況や雑談配信で稼げる時代。俺が子供の頃にはなかったような職業もランクインしているらしい。
 ……好きなことで食っていけたならどれだけ幸せか。
 ゲーム、スポーツ、料理、裁縫、動物関係……。
 好きなものを学んで、詳しくなってできることが増えて。趣味を生きるための義務にはしたくない、なんて考えもあるみたいだが、少なくとも俺にとって、好きなものを仕事にして一生懸命やるってのは、すごく幸せなことだった。
 小説が好きだった。物語が好きだった。
 全く別の世界に入り込んで、全く別の人物になったような気になれるから。日本も異国も異世界も、どこでも自由に文字を通じて旅することができる。
 俺にとって本は、そんな夢のような世界だった。
 電子よりも紙が好きだった。
 紙の匂いや質感、ページを捲りゆっくりと活字を追うのが好きだった。
 初めて自分で書いた物語は、とても人様に見せられるような出来ではなかったが、そのストーリーは存外気に入っている。
 それから1、2年が過ぎて、それなりの出来の作品を適当な新人賞に応募したらあれよあれよと話が進んで、いつの間にやらそれなり有名な作家になっていた。
 好きな話を思いつく限りに彩って、描いて、そうして得た収入で好きな作家の新作を買う。
 大好きな本に囲まれて、毎日が本当に楽しかった。
 …………半年前に交通事故に遭うまでは。
 信号無視した車に思い切り撥ねられ頭部を強く打ち、意識不明の重体に。
 目が醒めたときには事故当日から二週間が経っていた。いくつもの報道番組で大々的に報道される程度には大きな事故……事件? だったそうだ。
 脳機能の障害も四肢の不自由等もなく、医者の話では事故の割に軽症で済んだらしい。
 正直、そんなことはどうでも良かった。片腕がなくなろうが、下半身不随で車椅子での生活になろうが、あの事故で俺が失ったものを取り戻せるのなら安いものだ。

 あの日以来、俺の両の目が光を映すことはなかった。

 視力を失い、一人ではろくに動けなくなり、自宅で過ごすことすら一苦労。そして、本を読むことができなくなった。
 点字を覚えれば自力で読むこともできるが、指先の感覚のみで字を覚えるというのはどうにも難しい。文字を認識するので手一杯で、内容を理解するなんてとてもできたものじゃない。
 有名作品ならばサブスクリプションサイトで朗読を聞ける。物語に触れることはできる。だが、やはり違う。
 栞を挟み、読みかけだった本がある。シリーズ物のミステリ小説でまだ完結していない作品もあった。
 ……もう二度と、あの世界に浸れることはない。
 その絶望は俺にとってはとてつもないもので、暫くは何もする気が起きずにいた。そんな中でも俺を支えてくれていた担当編集者や友人、家族のおかげでどうにか今日も生きている。
 小説家は辞めた。もう文字を書くことができない。視界がなくなり、小説のネタになるようなものをみつけられなくなった。
 今までに買った大量の本はすべて処分した。どうせ手元にあっても二度と読むことはできないから。
 生きる意味を失って、死ぬ勇気もないからただ生きているだけの日々。
 もしも願いが叶うなら、視力が戻って欲しいなんてこと言わないから。ただ一度、一冊だけ、お気に入りだったあの小説の続きを。あの夢の続きを、この目で見てみたかった。


#20『あの夢のつづきを』

1/12/2025, 3:26:42 PM