汀月透子

Open App

〈君が見た夢〉

 娘の薫が実家を訪ねてきたのは、秋も深まってきた日曜の午後だった。

「お父さん、ちょっと話があるんだけど」

 リビングのソファに座る薫の顔は疲れ切っていた。
 妻がお茶を淹れてくると、薫は静かに話し始めた。

「離婚することになった」

 夫の不倫。探偵事務所の報告書。内容証明。そして、慰謝料などを協議していること。
 淡々と語る娘の声には、もう怒りも悲しみもなかった。ただ、疲弊しきった、諦めにも似た静けさだけがあった。

「向こうの親からね、いろいろ言われて」

 薫はため息混じりに続けた。

「早く子どもを産んでいればよかったとか、もっと女として努力すべきだったとか。
 いろんなことを言われて……もう疲れた」

 俺は何と声をかけていいかわからず、黙ってお茶を一口飲んだ。
 父親として、娘の痛みを少しでも和らげてやりたい。でも下手な慰めは、かえって娘を傷つけるかもしれない。

 薫は窓の外を見つめたまま、ぽつりと呟いた。

「お父さんとお母さんみたいな夫婦になりたかったなぁ」

 その言葉に、胸が詰まった。

「うちみたいな家族になるのが夢だったのに」

 うつむく薫は、まるで子どもの頃に戻ったようだった。
 小学校の運動会で転んで泣いた日。友達に仲間外れにされて帰ってきた日。いつも俺たちに抱きついて、涙をこぼしていた小さな薫。

「……うちだって、いろいろあったんだ」

 俺は静かに言った。

「お母さんとも、何度も喧嘩したし、すれ違ったこともある。
 完璧な夫婦なんて、この世にはいないんだよ」

 薫が顔を上げ、こちらを見た。

「でもな、薫。
 お前の夢は、それだけじゃない」

 俺は薫の目をまっすぐに見つめ、言葉を選びながら続けた。

「お前は優しくて、頑張り屋で、人の痛みがちゃんとわかる子だ。
 そんなお前が、これから自分のための夢を見つけてくれたら……それが一番うれしい」

 薫の目に、うっすらと涙が浮かんだ。

「家庭を持つことも、もちろん素晴らしい。  
 でも、それだけが人生じゃない。お前の人生は、お前のものだ。
 誰かのためだけじゃなく、自分のために道を考えてくれ」

 そこまで言って、少し照れくさくなり視線を逸らした。

「うまく言えんけど、ずっと応援してる。
 お前の味方だ」

 その瞬間、薫の顔がくしゃりと歪んだ。
 声を上げて泣き出した娘は、小学生の頃に戻ったようだった。俺の肩に顔をうずめ、ぽろぽろと涙をこぼす。

「……ごめんね、お父さん」
「謝ることなんて、何もないよ」

 俺は娘の背中を優しく叩きながら、自分の目頭も熱くなるのを感じていた。

──

 それから三か月後。
 薫の離婚手続きがすべて完了し「お疲れさま会」と称して、海辺の温泉地へ出かけた。

 宿の部屋から見える夕暮れの海は、穏やかに波を揺らしている。
 露天風呂から戻ってきた薫の表情は、少し明るくなっていた。

「まだ全部終わったわけじゃないけどね」

 薫は乾杯のグラスを傾けて笑う。

「慰謝料の振り込みとか、まだ残ってるから」
「それでも、一番大変なところは越えたんでさょ?」

 妻が言うと、薫はうなずいた。

「うん。あとは事務的なことだけ」

 改まって薫がこちらを見る。

「あのさ……ちょっと勉強してこようと思うんだ」
「勉強?」
「イタリアに行ってくる。インテリアデザインを学びたい」

 思わずビールのグラスを置いた。妻も目を丸くしている。

「え、いつから?」
「来月。半年くらい」

 あまりに唐突な報告に言葉を失った。
 実家でしばらく休むものだと思っていたのに、まさか海外とは。

「お父さんもあなたが実家に戻るの楽しみにしてたのに」

 妻が笑うと、薫も照れたように笑った。

「ごめんね。でも、今じゃないと踏ん切りがつかなくて」

 薫の目には、以前よりも強い光が宿っていた。
 俺はしばらく黙っていたが、やがて深く息を吸った。

「……帰ってくるのは、いつでもいい」

 薫が顔を上げる。

「好きなだけ勉強してこい。
 お前は一人じゃない。俺たちがいる」

 妻も頷き、薫の手を握った。

「お帰りって言えるのを、楽しみに待ってるから」

 薫の目に、また涙が浮かぶ。けれど今度は、悲しみではなく希望の涙だ。

「ありがとう」

 窓の外では、波音が静かに響いている。
 薫が見る夢は、もう過去の幻ではない。これから自分で描いていく、新しい未来の夢だ。

 その夢がどんな形になるのかはわからない。  それでも、どんな道を選んでも、薫は薫のまま生きていける。
 それを信じることが親としての幸せなのだと、俺はようやく理解した。

 海の向こうに沈む夕陽を眺めながら、俺は静かに微笑んだ。

──────

ママ視点とどっちがいいか悩みましたが、今回はパパ視点で。
ママにはもっといろんなこと話してそうですね。

このお題に合わせた「君が隠した鍵」別ver.はいずれまた。

12/16/2025, 10:41:02 PM