緋鞠

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僕はとある夏に、少し不思議な人に出会った。
その人は、音楽がとても好きだと言っていた。思い返してみても、音楽を聴いているか、歌を歌っていることが多かったように思う。
その人は、いろいろなことを音楽や音楽用語で例えた。おかげで、僕も少し音楽に詳しくなった。主にクラシックに。
その人は、朝遅刻しそうになると、『熊蜂の飛行』というクラシック曲が頭の中で流れ出すらしい。僕も実際に聴かせてもらったけれど、確かにあれはかなり焦る。
その人は夏が来ると、『ツァラトゥストラはかく語りき』という曲の冒頭が思い浮かぶ、と笑っていた。これは僕も知っていた曲だったけれど、そんな風に聴いたことは無かったから面白い考え方だと思った。
その人は海を見ると、『海の歌』という曲を思い出すと、少し寂しげに言っていた。その曲はオーケストラではなく、吹奏楽の曲らしい。その人は、昔演奏したことがあると言っていた。
その人は海に沈んでいく夕日を見ると、『アルメニアン・ダンスパート2』と『マーチ プロヴァンスの風』と『天国の島』という曲を思い出すらしい。どれもまた吹奏楽の曲らしい。その人いわく、『アルメニアン・ダンス』と『天国の島』は演奏したことがあるのだそうだ。
その人は海から登る朝日を見ると、『マードックからの最後の手紙』という吹奏楽の曲を思い出すらしい。その人が言うには、その『マードックからの最後の手紙』はタイタニック号の事件を元に書かれた曲らしい。素敵な曲だから一度は演奏してみたかったと、遠くを見つめながらその人は笑った。
その人は心から音楽を愛していた。それは音楽に詳しくない僕にだってわかった。それなのにその人は、もう音楽はやらないのだと寂しそうに言った。聞くべきではないとわかっていた。でも、あまりにその人が寂しそうに言うものだから、僕は思わずどうして、と聞いてしまった。その人は遠くを見つめながら、どうしても、と言う。今考えてもその人がどうして音楽をやらなくなったのかは分からない。けれど、いつか本当のことが聞けるのならば聞いてみたいと思う。
夏の影に消えてしまったあの人に。

テーマ:沈む夕日

4/7/2024, 4:18:04 PM