《たそがれ》
ふと気が付くと、自宅のどの部屋にも彼女がいない。
銀にも見える白髪に、紫がかった赤い瞳。
闇に魅入られその力を受けた証の色を持つ彼女を、大掛かりな騒ぎにしない為にも同居をさせる形で監視を始めて暫く経つ。
何も企む様子は無い。悪事に手を染める兆候も無い。
それどころか、その明るさと僕への信頼は揺るぎの無いもので、今は傍にいないと不自然さすら感じる。
そんな彼女が家を出る時は、大抵庭で過ごしている。
予想を立てて庭に出ると、その通り彼女はそこにいた。
庭に昔から植えられている、一本の大きな木。
その幹から生える太い枝に、彼女は座っていた。
それなりの身体能力があると気付いてから、彼女は時々ではあるがその木に登り遠くを眺めるようになった。
高さとしては、成人男性一人分ほど。枝ぶりとしては、大人が乗っても優に耐えられるようなものだ。
しかし万が一手を滑らせたり枝が折れたり危ないからと木に登る事を控えるよう言ってはいるのだが、
『ごめんなさい。どうしても、そこからの風景が見たくなって。』
と、寂しげに謝られてしまうため、僕はそれ以上強くは止められなくなってしまった。
頻繁ではない上に、今まで小さな怪我を負うような事も無い。
が、それでも何かあってからでは遅いという心配が消える事も無い。
その想いを胸にしながら彼女に声を掛けようとして、僕はその姿を見た。
沈みゆこうとする太陽を背景に、木の枝に腰掛け遠くを見る彼女。
僕に比べて小さな身体と白い髪が作り出すシルエットは、橙色の光に縁取られている。
暖かな光の色彩が作り出す風景のはずなのに、何故かそこ一帯の空気は暖かさを奪われた感じがした。
逆光でよくは見えないが、彼女の眦は下がり、唇は一文字に引き結ばれているのか。
その赤紫の瞳の奥には、一体何が映されているのか。
いつもの明るい貴女とは全く違う、辺りの空気。
今木の上にいる貴女は、本当にいつも一緒にいる貴女なのか。
それとも、何かが貴女の周りの暖かさを奪っているのか。
それはもしかして、僕なのではなかろうか。
暫し時が止まったかのように身動きが取れなくなった僕に気付き、樹上から彼女が降りてきた。
その動作には、少しの危なっかしさも無い。
そして木の根元に降り立ち、彼女がこちらに駆けて来た。
背後からの太陽で、やはりその表情は掴み辛い。
「ごめんなさい、また木登りしてしまいました。」
僕の目前に立ち、申し訳無さそうに彼女は詫びた。
樹上での空気から一変、そこにはいつもの暖かさが戻っていた。
僕は、その変化に圧倒された。
「い、いえ、謝らないで。怪我が無いならいいです。何かいい景色が見れましたか?」
僕は動揺しながらも、彼女に問いかけてみた。
ただ見える物ならば知っている。ここは、僕が生まれ育った家だ。
あの時と然程変わらぬ、帝国の景色。黄金色の金属で作られた、過去よりの技術と圧政の結晶。
でも、そんな物ではなくて。
さっきの貴女の瞳に映ったもの、感じていたものを知りたくて。
貴女を疑い監視をしている。そんな僕が言えた義理じゃないと思うが。
その質問を聞いた彼女は、一瞬だけ目を見開いた。
そして赤くなり始めた光をその背に、明るい笑顔で答えた。
「…はい! 夕日に照らされた街並みがキラキラ光ってて、とても綺麗でしたよ。」
東の空は闇に溶け始め、西は地平線に向かう太陽が藍の雲を濃桃に染めている、そんな黄昏時。
貴女は、何者なのか。
その瞳に何を映し、何を想っているのか。
それを貴女から聞ける機会が、いつか訪れる日は来るのだろうか。
そんな想いが少しずつ、僕の中から湧き出てきた。
10/2/2024, 8:36:10 AM