日向

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「芙蓉(フヨウ)」は、いわゆる「深窓の姫君」だ。彼女の楽しみは、蔀から季節の彩りを眺めて詩をつくることだけ。この時代、高貴な人が外出することは自由ではなかったのだが、たまにこっそり門を抜け出したら、父からこっぴどく叱られたのを覚えている。
そんなとき、一羽の黒鳥が蔀の縁にとまった。 この鳥の名前を、芙蓉は知っていた。
(鳥だ!)
書物では真っ黒な体と書かれていたけれど、日の当たり具合によって、縁だったり紫だったり、羽根は色を変える。 初めて目にする鳥をマジマジと見つめていると、足になにか結ばれているのに気がつく。
「これは、紙?」
紙をほどく間、驚くほどこの鳥は大人しく、されるがままだ。手にとってみれば、いつも使うような紙より、ザラザラしてて触り心地が悪い。 恐る恐る紙を開くと、短く字が書かれていた。
「ハシ、メマシテ……?」
拙い字、悪く言えば汚い字。 貴族でこの字を書こうものなら多くの貴族にバカにされるだろう。けれど芙蓉はこの六文字を何度も何度も読み返す。 いつの間にか鳥はいなくなっていたけれど、それにも気づかず、 何度も。
見知らぬ相手からの手紙。 鳥の足に括り付けられて、 それは月に一度はやってきた。 芙蓉も返事をかき、 鳥に託し、 こうして手紙のやり取りは続いた。 両親に見つかったら、きっとこれは燃やされてしまう。 必死に隠して数年。 字は汚いままだが、 字数は送られてくるたび増えていった。
「オゲンキ、 デスカ? ワタシはゲンキ、デス。ふふ」
何年経っても、 他人行儀というか、手紙越しに伝わるほど緊張してる。それがなんだか可愛らしくて、 愛おしそうに紙を撫でた。
「キョウは、サクラナミキを、ミテキマシタ。 桜並木か」
書物で一度読んだことがある。大樹がそびえ立つ姿こそ桜だと思っていたけれど、人々を虜にする桜並木を一度は見てみたいと思った。
「私を外へ連れていって、」
そう書いたところで、紙をクシャリと丸めた。 相手は自分の素性を隠していたが、それほど高い身分ではない男であることに芙蓉は気づいていた。
「私も見てみたいけれど、 妄想だけに留めておきましょう」
芙蓉には幾多の見合い話が舞い上がってくる。 婚期である今、縁談も進んでいる。 でも芙蓉は見知らぬ手紙の相手に、 特別な想いを抱いていた。この淡い想いは心に留めておくしかない。 それが姫の定めなのだから。

数ヶ月後、 芙蓉は寂しさを浮かべながら、 返事を書いた。
「この度、 私はある殿方と結婚することとなるかもしれません。 手紙は、
これで終わりです。退屈な日々を彩ってくれて、ありがとう」
ポタポタ、 手紙に落ちていく涙。 紙にシワをつくっても、その涙の意味さえも、この人に伝えたい。
「さよなら、 烏さん。 さあ、 最後の仕事よ」
伝達者の姿を見送るが、いつもみたいに遠くへは飛んで行かない。 空中で輪をつくり、 なにか伝えようとしている様子。 芙蓉は重い単衣を脱いで、町娘のように軽々とした装いになった。蔀から身を乗り出し、地面に足をつける。 その様子を確認したように、鳥は体の向きを変えて、 西の方に飛んでいく。 人生でこんなに走ることなんて、 もうないだろうな。 服がはだけるのもお構いなしにひたすらに走り続けた。
「いてっ、 いてえって」
烏が降り立った場所は、 門内だった。自分がよく知る建物の中。 この家に仕える武人たちの稽古場、 道場。 そこに立つ一人の青年。 彼の肩には見知った黒鳥がとまって、 青年の頭をつついている。
「あなたが ......」
「ん、?」
漆黒の髪を持つ、目鼻立ちのハッキリとした青年だった。蔀の隙間から差す日差しに照らされて、 髪色は緑や紫に変わったりする。 まるで烏が人の姿になったようだった。 青年は芙蓉の顔を身なりを見るなり、顔を赤らめたり、 青くしたり、 ちょっと忙しい。 芙蓉はそんなこと気にせず、 青年を見据えている。
「桜並木のある場所へ連れていって。 私と桜を見にいっ
「ひ、姫様......!?」
芙蓉の白い頬を銀色に輝く雫が伝う。 大粒の涙が溢れ出す。 慌てていた青年が今度は至って真剣に向き合う。
「縁談の話は知っています。 貴方がこの手紙で最後にしようとしていたのも、なんとなくわかっていました。 でも、 俺は貴方をお慕いしてます。 貴方がこの先誰と結ばれようとも、 貴方だけを愛し続けます」
真っ直ぐとした、澄み渡った眼差し。 その視線に射抜かれたように、芙蓉は瞳は大きく揺らめく。
「私は、貴方がいい」
「え?」
「私は貴方をお慕いしています!」
青年の告白を真似た、 芙蓉なりの遊び心のある愛の言葉だった。 彼からしてみれば、 自分よりずっと上の身分の女性に好意を持たれているんだから、普通ではいられない。 その証拠に、 尋常じゃないくらいの大声を道場
中に響き渡らせているのだから。芙蓉はほっそりとした手で青年の手を包み、 愛おしそうに微笑む。驚きでどうにかなりそうだった彼だが、 慕う女性に手を握られ、再び顔を赤くさせた。
その後、 芙蓉の父にはもちろん秘密に文通していたことはこっぴどく叱られた。青年は冷や汗ダラダラである。 しかし芙蓉の母の口添えもあり、二人の婚約を認めたのである。 彼らの婚儀は桜並木の下で行われたそうだ。

──姫の退屈な日々を彩ることができたのなら、 本望です。

2/18/2025, 3:17:28 PM