読経が聞こえる。
鼻腔を掠める線香の香りに目を開けた。
目の前には、花に囲まれた数名の見知らぬ人々の遺影。振り返れば喪服に身を包んだ人々が、皆一様に俯き死者を悼んでいた。
啜り泣く声が聞こえる。ひそひそと囁く声が、この葬式が雪崩に巻き込まれ亡くなった人々のものだと告げていた。
「お姉さん」
「睦月《むつき》ちゃん」
呼ばれて視線を向ければ、喪服姿の睦月がいた。感情の抜け落ちた顔で、右端にある遺影を指差した。
「わたしのお父さんとお母さんはね、麓に続く道路で雪崩にあって死んじゃったの」
表情と同じく、語る声音も淡々としている。
「わたしね、お葬式で泣けなかったの。お父さんもお母さんも大好きで、とっても悲しいはずなのに泣けなかった……今も泣けない。悲しいのかも分からなくなっちゃった」
遺影を見つめるその目には、確かに涙はない。けれどもその目の奥で揺れている感情は、紛れもない悲しみだった。
悲しみが深過ぎて泣けないのだろう。そしておそらくは、彼女には泣ける相手もいないのだ。
手を伸ばし、そっと睦月の頭を抱いた。頭を撫でると彼女は目を閉じ、微かに震える吐息を溢す。
「お葬式の後から、夢を見るようになったの。夢の中でヒガタについていった人もね、わたしと同じだった。泣けなくて、段々何も感じなくなって……ここにいられないって思った。ヒガタの導く所に行かないとって、感じたの」
「睦月ちゃん」
「でも、咲子さんはちょっと違うかな。あの人の中にはヒガタがいたから、一緒にいるべきだって感じたんだと思う……わたしたちが行かないといけないって思うのは、もしかしたらあの人の記憶が伝わるからなのかもね」
目を閉じたまま抑揚なく語られる言葉の悲しさに、思わず唇を噛み締める。こうして頭を撫でることしかできないのが歯痒い。彼女の泣ける場所になれないことが、苦しかった。
「ねぇ、お姉さん」
額を擦り寄せ、睦月が呼ぶ。
「お姉さんは、どうして泣けるの?」
小さく息を呑んだ。
泣ける理由であるただ一人を思い浮かべ、けれども何も言えずに睦月から視線を逸らす。
泣いても受け止めてくれる大切な人がいるからと、理由を告げるのは簡単だ。しかしそれを一人きりの彼女に告げることは、どうしてもできなかった。
――しゃん。
不意に鈴のような音が聞こえた。
「――っ」
視線を向け、硬直する。
青い異形の面。ひび割れたその隙間から。
ないはずの目がこちらを見据えている。そんな気がした。
腕の中に感じる温もりに、燈里《あかり》は目を覚ました。
そっと布団を捲ると、そこには穏やかな顔をして眠る睦月の姿。時折甘えたように擦り寄る彼女の頭を撫でながら、燈里は小さく息を吐いた。
「あまり、そいつに心を砕くな。これ以上縁《えにし》が強くなれば、引き摺られるぞ」
先に起きていた冬玄《かずとら》が低く告げる。その警告に曖昧に頷きを返しながらも、燈里は睦月から離れようとはしない。冬玄もそれ以上は何も言わず、言葉の代わりに燈里の頭を強めに撫でた。
「昨日のあんちゃんはいるべか?」
源護《げんご》が睦月の家を訪ねたのは、昼時を過ぎた頃だった。
「何だ突然。何か用か?」
眉を顰めつつ応対する冬玄に、源護は苦笑しつつ手にした鍵を鳴らす。その鍵を見て、様子を伺っていた睦月は首を傾げて源護に近づいた。
「それって確か、集会所の鍵だよね?」
「んだ。このあんちゃんに、ヒガタの衣装さ見せっかと思ってな」
「じゃあ、皆で行けばいいよ!」
睦月のはしゃいだ声に、源護は眉を寄せ居間を覗く。囲炉裏端に座る燈里と楓《かえで》を見て、驚いたように目を見張った。
「こんな時期に客人か?悪ぃこと言わねから、小正月さ来る前に村さ出た方がいい……睦月、おめぇもだぞ。モドキに連れてかれっちまう前に、ここさ出ろ」
「え?でもね、おじさん……」
今年はわたしの番。
そう言いかけた睦月の手を引き、燈里は首を振る。口を噤んだ睦月の頭を撫で、燈里は源護に対して頭を下げる。
「私たちなら大丈夫です。ご心配して頂きありがとうございます」
「そうかい?無理にとは言わねぇが、気ぃつけんだぞ」
「それなら、気をつけるためにも早く行こうよ」
頭を撫でる燈里の手を取り、睦月は笑顔でその手を揺する。早く早くと急かされて、燈里は苦笑しながら出かける準備のため、睦月と共に部屋へと向かっていった。
「――相変わらずだな、睦月は」
居間を出ていく二人の背を見送り、源護はぽつりと呟いた。視線を向ける冬玄に力なく笑い、手にした鍵に視線を落としながら問いかける。
「睦月の両親のことは知ってっか?」
「あぁ」
燈里や楓から聞いた夢の話を思い返しながら、冬玄は頷く。そうか、と小さく呟き、源護は重苦しい溜息を吐いた。
「睦月はなぁ、両親が死んでからずっと泣いてねんだ。悲しみが深過ぎて、一人じゃ泣けね。だけんど、睦月には安心して泣ける場所がねぇ。久子《ひさこ》ばぁちゃんは、あいつにとって支える存在だからな……今まで、睦月みてぇなのは何人かいた。そいつらのほとんどは、モドキに連れてかれちまったよ」
手の中の鍵を握り締め、源護は冬玄に視線を向ける。
「今年は睦月が連れてかれちまうのかもしれんな」
その目は悲しんでいるようにも、どこか諦めているようにも見えた。
集会所の倉庫の奥。
隠し封じるようにしてしまわれていたヒガタの衣装を見て、燈里は悲しげに眉を潜めた。
いくつかある面の一つを手に取る。黒く角や牙の生えた面は、燈里が見た夢のヒガタの面とは異なる恐ろしさが伝わる。恐ろしい何か、を表しているのだろう。
「ヒガタの祭りをやってる時はこの集会所から家さ回り、最後にこの集会所に戻って大人だけで宴会を開いたって聞いてる」
ヒガタの衣装と共に出てきた箱を開け、源護は言う。
箱の中には額に入った何枚かの写真が収められており、ヒガタと村の大人たちが笑いあう姿が写されていた。
「そういや、最初はヒガタでねかったって、おらいのじいさまが言ってたな。名前なんてねがったはずだって
「名前が、なかったんですか?」
「んだ。多分正月の神さんとか、鬼とか呼んでたんでねぇべか。そこまでは聞いてねぇけんども……いつの間にヒガタになったんかは分からんが、モドキが出た時にはヒガタのモドキだっていう認識だったはずだ」
源護の言葉に燈里だけでなく、冬玄や楓も眉を寄せる。ただ一人、睦月だけは興味深げに写真やヒガタの衣装を眺め、首を傾げて呟いた。
「ずっとこのままなのは、何だか寂しいかも。写真に写ってる皆、とっても楽しそうだし……またできればいいのにね」
「モドキさいる内は無理だべ。連れてかれちまったら、たまんねぇ」
睦月の無邪気な様子に、源護は呆れたように溜息を吐く。緩く頭を振り、冬玄に鍵を手渡した。
「好きなだけ見てけばいい。終わったら鍵さかけて、戻してくれ」
そう告げて、源護は倉庫を出ていく。その背を一瞥し、楓は燈里の手の中の面を覗き込む。
「名前のなかった来訪神、か。随分と適当だ。どこでヒガタになったんだろうね」
「元の来訪神からきてるんじゃなかったのかな。火班《ひがた》を削ぐから、ヒガタだと思ってたけど」
「多分違うと思うよ」
燈里と楓の話を、睦月は蓑藁に触れながら否定する。
「ヒガタはね、ヒガタなんだよ。ヒガタを表した言葉なんだよ」
「どういう意味だ?」
「だからヒガタなんだってば……えっとね、すっとこのままの形で残さないといけないもの。継いでいくものとか、そういう感じ」
睦月の言葉は酷く抽象的だ。理解しきれないながらも、燈里は必死に伝えようとする睦月の頭を撫でる。
「ごめんね。ちょっと難し過ぎて、私にはちゃんと分からなかった。でも教えてくれてありがとう」
頭を撫でる手の優しさに、睦月は一瞬だけ顔を歪めた。
泣きそうな、幼い子供の顔。だがそれはすぐに凪ぎ、睦月は頭を撫でる手を取り、頬を擦り寄せた。
「お姉さん」
「なあに?睦月ちゃん」
首を傾げる燈里に睦月は笑いかけ、手を離す。
「ううん、何でもない」
「睦月ちゃん」
「ちょっとだけね。ずっとこのままならいいのにって、そう思っちゃっただけ」
小さな呟きに。燈里は何かを言いかけ、何も言えずに口を噤む。
笑っているのに泣いているように見えるその表情に、言葉の代わりにその小さな体を抱きしめた。
20260112 『ずっとこのまま』
1/13/2026, 10:27:38 AM