中学生

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私は中学校に上がるまで
まさか朝になると花咲くから「アサガオ」という名前が付けられているということを知らなかった。

それを知った時はかなり感動した。朝になると顔を出すこんなに綺麗な花。だからこんなに人気なんだ。と思った。

実はそれまで私は学校への行き渋りが激しかった。

朝は酷く、お腹が実際にとても痛くて起き上がれないほどだった。でも休むことを学校に伝えたと言われると、その症状は次第に引いてゆき、私自身も不思議に思った。

けれども両親は当然のことながら
その腹痛を仮病だと疑っていて、常に探りを入れられ何処か動物のような扱いを受けて辛かったのを覚えている。

朝皆んなで投稿する班にはA子ちゃんという苦手ない子がいて、いつもその子が中心になって全員で私を無視した。
だから私は絶対に登校班の人には会いたくなかった。
大人の前でもバレずに無視してくるのだ。もしプライベートで登校班に来ないことを踏まえると何をされるか分からなかった。
登校班のみんなからそんな嫌がらせを受けているなんて親に言えず、私はただ登校班にはいきたくないと言った。
母親は私のことを、歩きたくない怠け者だと思ってため息をつき無視した。
家でも登校班でも無視される私はドンドン気が滅入って行き、生死について考えるようにまでなってしまった。
それでも尚、班の皆んなの事は言えなかったのだ。

そして、それから三年が経過する頃。
私は学校に通えるようになっていた。ただし、親に学校まで送ってもらうか、少し遅れて別室投稿にしてもらうかだった。そして週一で休んでいた。
かなり安定してきていた。私はもう登校班に行ってみても良い気がした。でもそんな勇気は湧かなかった。
マイペースに一人で登校する中、私はアサガオのある植木鉢を見た。
早朝、雨が降っていたのか雫が滲んでいてそれには薄い色で着色された私が写っていた。
私は何故か悲しくなった。儚いという言葉はその年じゃ浮かんで来なかった。
ただ悲しい、寂しいという感情が目一杯溢れ出してきて私を支配した。ランドセルを水溜りに放り投げてどこかに逃げ出してしまいたい衝動に駆られた。
拒絶とは少し違う。憂鬱とは何か足りない。
その感情は、私不安にさせた。私はアサガオを見たっきり動けなくなった。
やるべき事と自分の気持ちが違って辛かった。
その二つの行動の真ん中が迷いだとするとずっとそこから私は動けなくなった。
例えば、
パーしか出せない人と
グーとパーしか出せない人が二人でじゃんけんして
負けた人は殺されるっていうルールだとしたら
一人はパーしか出せないからパーを出し続けて、
もう一人はパーとグーを出せるけど、グーを出したら殺されちゃうからずっとパーを出し続けてるような
想像するだけで肺が燃えそうな空気をずっと吸い続けているような感覚だった。

そんな時、アサガオに水が降ってきた。
雨じゃない。水のでどころ辿るとどうやらお婆さんがホースで水やりをしているようだった。
私はその行動が嫌がらせとしか思えない心になっていた。

私は何歩か移動して少ししゃがんで楽になりたいと思った。何故か吐き気がした。けれども吐く様子はなく疼く事もなかった。
お婆さんはそれで初めて声を上げた。意外にもとても優しい声だった。

「お嬢さん、どうしたんだい?学校は?」

私は文末に付け加えられた学校という文字に浮遊感のようなものを感じた。
私が言葉に詰まっているとそれを察してかお婆さんはアサガオに話題を転換した。

「このアサガオはね、孫から貰った種を植えて、種子をとって、を繰り返して何十年も咲いてきた朝顔なんだよ」

「私はアサガオが好きだよ。朝になればそれを元気に知らせてくれる朝顔は、なんだかとっても元気をくれてね。これは孫だと思って育てているよ。」

私は何故か分からなかったが、その声に酷く感動させられた。それと同時にこの人の孫を羨ましく思った。こんなに素敵なお婆さんの孫だなんて、
私はさっきまで何で悩んでいたか忘れた。
これは過去からきたんだ。この土の匂い、反射した私、伸びたツルは色づき、もうモノクロでは無くなっていた。
私はこんな何の変哲もないただの日常の片隅にこんな美しいものがあってたまるかと思った。
そして、このお婆さんの愛情と、お母さんを挟んで孫を通して今にまで形に残っているのが素敵だった。

それから私は毎日そこへ寄った。日に日にそのお婆さんとも仲良くなって、たくさん話すようになった。
もう孫さんは居ない事や、夫は仕事でいつも寂しいことなども教えてくれた。
私を、あの「朝顔」のように可愛がってくれた。


大人の私も元気に生きている。

通勤時、庭にある朝顔をみて思い出す。あの憎さ、悲しみあっての私だ。

お題→「花咲いて」

7/23/2024, 11:05:57 AM