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「キスってしたことあるか?」
 夕焼け色に染まった顔をこちらに向けることなく、向かい側の彼が言ってきた。
「頭でも打った?」
「その返しは面白くないぞ」
 カリカリと、小さな音を立てながら彼のペンが動く。丁寧で角ばった、いつもの彼の文字。日直ノートに書かれているのも彼らしく真面目なことばかり。
 そんな彼の口から一生出てこないだろうと勝手に思っていたワードが出てくるとは、何だか笑えてきた。
「おい」
 眼鏡の奥にある切長の目がこちらをじとりと睨む。おお怖い怖いと戯けて言えば、その目が更に鋭くなってきた。これ以上やると面倒なことになりそうだ。
「キスねえ」
 頬にかかった邪魔な髪を耳にかける。彼の表情は動かない。眼鏡の奥に見える目からも解らない。一体、何を考えているんだろう。
「あるよ」
「ふーん」
 さも興味なさげにしか聞こえない返答に少しカチンときた。
「ねえ、聞いといてその返事はなくない?」
「気を悪くしたか? すまない」
 淡々とした謝罪の言葉に申し訳なさも何も感じなかった。もう少し何か言ってやりたくもなったが、やめた。ただでさえ怠い日直の仕事をしているのだ。余計な仕事はしたくない。ため息だけに留めた。
「キスしたことあるなら、もう一つ訊きたい」
「何が?」
「キスに味はあったか?」
「は?」
 やはり頭をどこかで打ったのではないだろうか?
 こちらが訝しげに見ても彼の表情は変わらない。だが、目が少し輝いて見えるような気がした。
「覚えてないよ。随分と前だし」
「そうか」
 今度は残念そうな顔に見えてきた。生真面目な優等生タイプな彼がそんなに興味を持つなんて。偏見なのは承知の上だが、意外なものを見てしまったように感じて仕方がない。
 そんな彼を見ていたら、自分の中でほんの少し悪い癖が顔を出してきた。
「気になるの?」
「え?」
「キスの味」
 彼は暫し黙って、小さく頷く。
「じゃあ」
 味わってみなよ。
 机を乗り上げて、彼の頬に手を添える。あ、なんかちょっと冷たい。季節はもう夏なのに。
 彼の切長の目が大きくなる。一緒になって少し開いた口に私は有無を言わさず口付けた。
 おまけにと固まった彼の舌をべろりと絡めて、ゆっくり、ゆっくり唇を離してやった。静かな教室に、小さな唾液の水音がやけにいやらしく響いて聞こえる。
 眼鏡に一瞬映った私の顔は、腹立たしい程に母によく似た悪女の顔で笑っていた。
「どう?」
 ぽかん、と間抜けな顔をしてる彼に問いかける。その顔はちょっと可愛いかも、なんて思ってたら瞬きの間に彼はいつもの生真面目な面白みのない顔に戻っていた。
「無味だな」
「……それだけ?」
「ああ」
 淡々とした声に私の悪い癖が小さく舌打ちをした。面白くない。本当に、面白くない奴だ。
「もう少し何かなくない?」
「ないな」
 パタリ、日直のノートが閉じられた。いつの間にか彼はノートを書き終えていたようだ。
 先ほど同級生に突然キスされたというのに、彼は何事もなかったように身支度を目の前で整えていく。私はそれをぼんやりと見ていた。
「帰るぞ」
「はーい」
 完全に身支度を整え終えた彼の言葉に私も腰を持ち上げる。既に帰り支度は済ませてあるので何もない。
「よし、帰るかー」
「先生にノート出してからな」
 彼の言葉にはいはいと適当に返事をする。彼はその返答を気に留めない様子で職員室へと向かった。私もそれに続く。
 気付けば、真っ赤だった夕焼け空は藍色の夜空に変わろうとしていた。

2/4/2024, 5:21:06 PM