アクリル

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ささやき


「あなた、宇宙人なんでしょう?」

誰もいない夜道を歩いていたら、確かに耳元でそう聞こえたのだ。

声の主は何者か。
変わり者か、犯罪者か、化け物か?
それよりも。
私の脳は恐怖やら疑問やらという人間らしい反応を通り越して、己が本当に地球人であるかを疑い始めていた。

口は勝手に動いていた。

「そうかもしれない」

きっと人間ではないのだ。

シャカイもチキュウも、初めてなのだ。

トカイのザットウも、イナカのムラハチブも、サベツもヘンケンも。

理解し難いものの多い性質であることは薄々気づいていた。
だからこんなにも、毎日息がしづらくて、地に足を付けて世界を刮目できないのだ。

「ならば、一緒に来てください」

一段と近くなった声はとうとう質感を持って私に接触した。
新手の誘拐の類だろうか、と思った直後だった。

右の手首にひんやりとした何かが触れた。
およそ人間とは思えない温度が、今まさに私をどこかへ連れ去ろうとしている。

視界は変わらない。
見慣れた帰路を、よくある形の街灯が照らしている。

ただただ、意識が凍っていくように、恐怖さえも一切ないまま手を引かれている。

ああ、帰れるかもしれない、と思った。
きっとこの人は私を迎えに来たのだ。
妙に安心して、無意識のうちに私は頷いていたのだろう。

「お疲れ様でした」

ふわりと体が浮いた。視界も浮いた。地面が遠ざかっていく。

ああ、よくやった。そういえば仕事帰りだったな。これで終わりなのかな。もう、どうでもいいか。
全身からあらゆる重さが消えていく中、私は目を閉じた。


目が覚めた。
星が見える。
ふかふかとした何かに寝転がっている。

「おかえりなさい」

さっきの人だ、と声のする方を見た。

私が立っていた。

真っ先に気になって問うてみた。

「あなたは宇宙人?」

「そうかもしれない」

ならばこの場所はどこだろう。聞くしかない。
「ここはどこ?」

「ここは、ここだよ。あなたはそこに存在している、私もそう。それ以上に知るべきことなんてあるの?」

その通りだ、何もない。理屈より先に腹が知っていることに気づく。
「ないかも」

「それがわかったなら、もう大丈夫、じゃあまたね」

返す間もなく、世界は暗転した。
もう一度目を開けると、自宅の寝室にいた。
サイドテーブルには何かの書類が散らばっていて、スーツとカバンはゴミ袋に入っていた。
何事だろうか。まずは書類に手を伸ばす。
退職届だった。それも控えの。

私は悟った。やっとこのループを卒業したのだ。

最後に開けたのはいつだったかも思い出せない、薄汚れたカーテンを開けた。
満開の桜が光っていた。
案外、地球も悪くない。ヒトの大群はまだ私には早かったけれど、この地上を愛せないこともない。

所謂春というやつだ。
すっかり見惚れていると、頭上からテレパシーのように、暖かいあの声が降ってきた。

「おかえりなさい、本当のあなた」

4/21/2025, 6:24:27 PM