郡司

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懐かしく思うこと、と思い出の数々を巡ってみた。

「たぶん二度と再現も出来ない」であろうけれど、時代の温度を今でも思い出す、子どもの頃のもの。

 春の雪解け水が、土の道の端に掘られた細く浅い、明るい色の草がまばらに生えてきている溝を奔るさまを、長い時間しゃがみ込んで眺めたこと。
 水は澄んでいて、それが流れる溝の底のでこぼこに当たっては持ち上がり、落ち気味に流れの底へ沈み、またすぐ次のでこぼこで持ち上がって…を繰り返す。午前の陽の光を、澄んだ水全体にあかるく受けていながら流れの躍動がきらきらと表面で跳ね踊っていて、そこに光が当たらなくなるまで、ずっと見ていた。水はどんどん流れて、一瞬前の水はもうそこには無い。すごい速さで新しく違う水が流れて来るのに、「どの水も」キラキラしい躍動を次々と放つ。
 条件が揃えば当たり前に現れる光景なのに、水の振る舞いがなんとも綺麗で、この記憶は何故かとても鮮烈に残っている。今思い出しているが、土・草・枯れ草・水・光と水が返すきらきら・空気の匂い、それらすべての気配が目の前にある気さえする。そして、目を離せずに飽きることもなく見ていたあの水のすがたの、「何」にあれほど惹きつけられたのか、今もって言葉に表せないのだ。表せるなら誰かと分かち合いたいんだけどね…あれ? この感覚は「懐かしい」じゃないな…?

 夏休みから秋口にかけて、薪割りは手伝う仕事のひとつだった。小学生だった私にとって、ただ面白く取り組めた数少ない作業だ。縦置きした木材に、斧を低い位置から「カッ」と食い込ませて、そのまま今度は高い位置から振り下ろして薪にする。風呂を焚く釜やストーブに火をつけるための焚き付けは、鉈で細く、木材の繊維方向に沿って割くようにつくる。冬が来る前までに充分な支度をする、暮らしの季節作業だが、豊かな思い出だ。

 落ちた胡桃を拾って集める。リスよりも早く。一斗缶いっぱいに集めて、外皮が腐って無くなるのを待つ期間も楽しみだった。外が雪深くなった頃、胡桃を割って取り出す作業をする。一度に少しずつしか食べられないが、冬のおやつだった。私は松の実も狙っていたんだが、これは木の上で食べてしまうリスに勝てなかった。

 田んぼの収穫も終わって、朝晩冷え込む霜柱の頃に、毎年餅つきをやっていた。大きな木から削り出した大きな臼と杵で、大量の餅をつく。正月のためのものは勿論、冬の間に食べる保存食でもあった(寒い土地なので、出来た餅を凍らせるのだ)ので、それはもう、大臼に7~8杯ぶんは作っていた。この日だけの楽しみは、つきたて餅を食べられること。きなこ・磯辺・納豆(ネギ入り)・味噌汁へ投入などなど選んで食べた。餅はつきたてが最高ですよ! これが終わると、正月の支度へなだれ込んでゆく。

 厳冬期の朝、毎日ストーブに火を入れる。薪ストーブを使う年もあれば、石炭ストーブを使う年もあった(石炭ストーブを使う年は、秋に小型ダンプカーが石炭を配達してくれていた。「ねこ」にスコップで石炭をざらざら積んで、納屋へ運ぶ)。薪ストーブの扉を開けて、通気口に捻った新聞紙を差し込み、そこに架かるように焚き付けを置いて、さらにその上に薪を置く。上手く火が回れば、扉を閉めて完了。
 社会人になってから、「焚き付け使ってたよ」などと言う話になったとき、「お前はいつの時代の人間だ。実は100歳なんじゃ…」と、ドン引きされたことがある。でも本当の話だ。

 私が懐かしく思うことは、どうやら生活の歳時記のものばかりのようだ。今振り返ると、なんて豊かな物事だったろうかと、正直驚く。人の温度が、暮らしの温度に直結していたことに、今になって気づいた。
 じいちゃん、ばあちゃん、ありがとうね。

10/31/2023, 3:22:50 AM