NoName

Open App

♯「こっちに恋」「愛にきて」


 アパートの下、たくさんの野次馬に囲まれて、あなたは華奢な肩を震わせながらうずくまっている。細い背中からは真っ赤な血溜まりと、白と灰色の繊維状のようなものが透けて見えていた。
 そこに、私と同じ顔の女が沈んでいる。ぱっくりと割れた頭。飛び出した目玉と、砕けて散らばった歯。そして、めり込むように折れた首。一目で死体なのだとわかる。血の中に浮いた白と灰色のマーブル模様は脳みその断片だと嫌でも気づかされる。
 あなたは嗚咽を漏らし続ける。スマホをかざす野次馬たちから隠すように女に覆い被さっている。あの世のものとなった体では無意味だとわかっていても、女を好奇の目に晒させてなるものかと必死で地べたにしがみついている。そのいじらしさが、私の胸をぎゅっとさせる。
 私はあなたの名をそっと呼ぶ。
 あなたの背中の震えがぴたりと止まる。ゆらりと上体を起こし、機械仕掛けの人形のようにぎくしゃくと後ろを振り返る。
 私を見つけて大きく目を見開く。お母さん――と、ガラスのように澄んだ声が私の耳に優しく響く。両親から堕ろせと言われても産んだ、暴力を振るう夫から身をていして守り続けた、たったひとりの娘。病床に伏せる前の、まだ学校に通えていた頃の元気な姿がそこに在る。

『100歳になったら私のところにきてね。必ず会いにきてね。それまでこっちにきちゃ、だめだよ』

 あなたはそう言ってくれたけれど。
 頷いた私を見て、安心したように瞼を閉じたけれど。
 恋しいと、愛しいと、募る思いは止められなくて。

「約束破っちゃってごめんね。お母さん、淋しくて会いにきちゃった」

 泣き腫らしたあなたの瞳から大粒の雫がぽろぽろとこぼれる。あなたと同じ透けた体では涙を拭ってあげることも、抱き締めてあげることもできないけれど。

 この世界に、あなたがいる。
 それだけで、私には充分なの。

4/26/2025, 3:30:04 AM