夜の街は、どこも乾いていた。
アスファルトも、ネオンも、
全部がきれいに光を跳ね返している。
「降らないね」
__が言うと、〈君〉はグラスの氷を軽く揺らした。
「うん」
短い返事。
その音だけが、やけに澄んで聞こえる。
小さなバーのカウンター。
__と〈君〉の間には、指一本分くらいの距離。
近いのに、触れない距離。
「天気予報、外れたね」
__が続ける。
「“ところにより雨”って言ってたのに」
〈君〉は、少しだけ笑った。
「外れてないよ」
「え?」
「ちゃんと降ってる」
その言い方に、少しだけ引っかかる。
「どこで?」
聞くと、〈君〉はグラスを持ったまま、少しだけ視線を落とした。
「見えないところ」
昨日と同じような言葉。
でも、意味が違う気がした。
しばらく沈黙が続く。
店内には、静かな音楽と、
遠くの会話のざわめき。
「ねえ」
〈君〉がぽつりと口を開く。
「人ってさ、どこで泣くと思う?」
唐突な質問。
でも、今はそれを唐突だと思えなかった。
「家とか?」
無難に答える。
〈君〉は首を横に振る。
「もっと、ばらばらだよ」
グラスの縁を、指でなぞる。
「電車の中とか、夜道とか、誰もいないキッチンとか」
その一つ一つが、やけに具体的で。
「同じ時間でも、同じ場所でも、
泣いてる人と泣いてない人がいる」
そこで少しだけ言葉を切る。
「だから、“ところにより雨”なんじゃないかな」
胸の奥が、少しだけ重くなる。
〈君〉は、やっとグラスを置いた。
そのとき、気づく。
〈君〉の目元が、少しだけ濡れていることに。
でも、泣いているようには見えない。
涙は落ちない。
ただ、そこにあるだけ。
「……降ってるじゃん」
思わず、そう言ってしまう。
〈君〉は、少しだけ驚いた顔をして、
それから困ったように笑った。
「見えちゃったか」
その言い方が、やけに軽くて。
「なんで隠すの」
聞いたあとで、少しだけ後悔する。
〈君〉は少し考えてから、答える。
「濡れると、困る人がいるから」
「誰が?」
少しだけ、間が空く。
—
「たぶん、」
その答えは、思っていたよりも静かだった。
__は、何も言えなくなる。
〈君〉は、目元を軽く拭う。
でも、完全には消えない。
まるで、降り止まない小さな雨みたいに。
「ねえ」
〈君〉が、少しだけ顔を上げる。
「もしさ、」
言葉を選ぶみたいに、ゆっくり続ける。
「誰かが気づいたら、その雨って止むと思う?」
分からない。
でも、黙っていたらいけない気がした。
「……分からないけど」
「少なくとも、ひとりで降ってる感じはなくなるんじゃない」
〈君〉は、少しだけ目を細めた。
「そっか」
その一言が、やけにやわらかい。
しばらくして、〈君〉は立ち上がる。
「帰るね」
「送るよ」
反射的に言う。
でも〈君〉は、ゆっくり首を振る。
「今日は、大丈夫」
その“今日は”が、少しだけ引っかかる。
「またね」
そう言って、〈君〉は店を出ていく。
ドアが閉まる音。
外を見ると、やっぱり雨は降っていない。
でも。
さっきまで、ここには確かに雨があった。
グラスの中の氷が、静かに溶けていく。
その音を聞きながら、ふと思う。
あの雨は、止んだんだろうか。
それとも、ただ場所を変えただけなのか。
「ところにより雨」
その意味を、少しだけ知った気がした夜だった。
3/25/2026, 12:56:21 AM