今宵

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『美しい』


 私が彼女に惹かれたのは、1通の手紙がきっかけだった。

 その手紙によると、彼女は教師をしていた母の教え子で、仕事で海外に赴任していたために、その手紙が届いた1年ほど前に亡くなった母の葬儀に参列できなかったという。まだ50代半ばだった母は逝くには早く、多くの教え子や同僚が母の死を悼みに葬儀に参列してくれた。
「手を合わせに伺ってもよろしいでしょうか」という申し出をありがたく受けた私は、多少散らかっていた仏間を片付け、来客用の菓子を買ってその日を迎えた。
 正直に言うと、その時の私は不謹慎にも少し浮ついていた。彼女の手紙を見たときから、私は彼女の丁寧な言葉遣いと、そしてそれ以上に彼女の書く美しい字に心を奪われていたのだ。
 一目惚れなんてものを自分はしないと思っていたにも関わらず、私は彼女の姿すら知らずに、ただ彼女の書く字に一目惚れをしてしまった。そう、あれはまさに一目惚れだったと思う。
 そういうわけなので、あれほど美しい字を書く女性は一体どのような人なのだろうかと、当日の私は緊張半分、好奇心半分の落ち着かない気持ちで、約束の時間よりずっと前から居間と玄関を行ったり来たりしていたのだ。

「ごめんください」
「はい、今開けます」
 玄関の引き戸を開けた私は驚いた。文字には書いた人の人となりが出るとどこかで聞いたことがあったが、彼女はまさに手紙の字のまま。それに1歩も引けを取らない美しい女性だった。
 美人という括りにしてしまうのは心底勿体無い。ただ外見が良いというわけでなく、些細な所作や洋服の着こなし方などに内面から滲み出る美しさが表れていたのだった。
 そのとき私は、2度目の一目惚れをした。

 それから私は彼女に猛アプローチをした。あとにも先にもあんなに必死になったことはない。何せ、その時の私達の関係はただの知人以下、ほとんど他人のようなものだったので、私はあれやこれやと理由をつけて彼女に会うための口実を作った。
 彼女はというと、最初は戸惑っていたものの次第に私の押しに負け、数ヶ月後には彼女の趣味である古本屋巡りに彼女の方から誘ってくれるまでになった。

 時が経つのは早いもので、彼女と結婚してから40年近くの月日が過ぎた。授かった3人の娘達はそれぞれ家庭をもってこの家を出て、今は彼女と2人きりの生活となった。
 ふと思い立った私は、タンスの奥から古い文箱を引っ張りだした。
 最近は手紙のやり取りなどめっきり減ってしまい、友人との連絡ももっぱらスマートフォン1つで済んでしまうようになった。それは彼女の方も同じで、彼女の書く美しい字を見る機会はほとんどなくなった。
 数年ぶりに見るあの手紙は全体的に色褪せていて、その色の濃さに過ぎた年月がうかがえる。
 だが、手紙の字の美しさはやはりあの時のままだ。
 彼女自身を表すような繊細で滑らかな字は、例えるなら春の小川の流れのようで、一方私の書く字は角張っていて、いかにもお堅いという感じがするのだから、やはりそれは私をよく表しているように思える。

「まあ、懐かしいわ」
 気づかぬ間に後ろに立っていたらしい彼女が、私の手元を覗き込んでそう呟いた。
「あぁ」
「まだそんな物を持っていらしたんですね」
「そりゃあ捨てられないさ」
「お手紙なら他にもたくさんあったでしょうに」
「もちろん他のも全部取ってある。だけどこれは特別なんだよ」
 私は彼女の文字をそっと指でなぞった。
「特別?」
「あぁ、特別さ」
 彼女は未だに、私達が最初に会ったあの時に、私が一目惚れをしたと思っている。あの手紙に書かれた彼女の字を見たとき、すでに私が彼女に好意を寄せていたとは知る由もないだろう。「あなたの美しい字に惚れた」なんて言われても彼女を困らせるだけだと思い、出会った頃に言いそびれたままなのだ。
 ふと右上に寄せられた彼女の顔を見上げると、そこには年相応のシワが見受けられ、若い頃にはなかった深みがでてきたようだった。
「何ですかそんなにまじまじと見て。顔に何かついてますか」
そう言いながら頬に当てようとした彼女の手を私はとった。
「君と結婚できて私は幸せだ」
「また何ですか。まるで新婚の頃みたいでなんだか懐かしいわ。私はもうすっかりおばあさんなのに」
 照れくさそうな彼女の頬が微かに色づいた。
「いや、君は美しい。あの頃も、今も」
「私の書く文字が美しいだけじゃなくてですか?」
「え!?」
 驚いた私を見て、彼女がクスッと笑った。
「知っていたのか」
「はい。まだ付き合って間もない頃に、あなたがご友人と話しているのを偶然聞いてしまって」
 確かに友人にはこの話をしたことがあったような気がする。それにしてもそんなに前から知っていたとは。てっきり彼女にはバレていないものとばかり思っていた。
「その……あれだ……」
「ありがとうございます」
 何か取り繕う言葉を探していた私に彼女がそう言った。
「気に障ってはないのかい?」
「ええ。むしろ私は嬉しかったんです。それまで何度か容姿を褒めて頂くことはあっても、私の字を見て私に好意を寄せてくれた方はいませんでしたから。それを聞いて私は、あなたと一緒に歩んでいきたいと思うようになりました」
 知らなかった。これほど長い間一緒に過ごしてきたのに、まだ知らないことがあったのだ。

「お茶でも淹れてきましょうか」
 そう言って台所へと向かう彼女の背中に私は声をかける。
「その……昔のように、また君に手紙を書いてもいいだろうか……」
 突然の提案に彼女が驚いた顔で振り返った。
 そして、それはすぐに優しい笑みに変わった。
「はい、お待ちしてます」

 不格好な文字でも構わないから、ちゃんと彼女に伝えよう。
 私は君の美しさ全てに惚れたのだと。

1/16/2024, 4:53:58 PM