心だけ、逃避行
目を覚ますと、そこは見慣れたはずの自分の部屋ではなかった。
正確には、部屋はいつものままなのに、空気の色が、音の響きが、すべてが違っていた。
壁の染み一つ、窓の外の木々の葉擦れの音一つが、妙に鮮明に、そしてどこか遠く感じられる。
まるで、自分の体がここにあるのに、心だけが抜け出してしまったかのような、奇妙な感覚。
「ああ、まただ」
ベッドの上で、私は静かに呟いた。
最近、この「心だけの逃避行」が頻繁に起こる。
疲れているのだろうか。
それとも、何かから逃れたいと、無意識に心が叫んでいるのだろうか。
今日、心が行き着いた先は、遠い昔、家族と訪れた小さな美術館だった。
ひんやりとした石造りの回廊。
壁に飾られた、記憶よりもずっと鮮やかな色彩の絵画たち。
幼い頃の私が、父親の大きな手の中で、首を傾げて絵を見上げていた。
その時の温かさ、安心感が、ありありと蘇る。
次に辿り着いたのは、学生時代によく一人で訪れた海辺のカフェ。
潮風が運ぶ磯の香りと、店内に流れるボサノヴァ。
飲みかけのコーヒーを前に、漠然とした未来への不安と、それでも何とかなるだろうという根拠のない自信が入り混じっていたあの頃。
窓の外には、水平線に吸い込まれていく夕陽が、今も変わらず輝いていた。
心は自由だ。
どこへでも行ける。
時間も距離も、何の制約もない。
嫌な上司の顔も、山積みの仕事も、支払いの催促も、すべてがそこには存在しない。
ただ、心地よい記憶と、穏やかな風景だけが広がっている。
だが、この逃避行には、いつも終わりが来る。
ふと、心に現実の重みがのしかかる瞬間。
それは、冷たい雨の音だったり、見知らぬ誰かの笑い声だったり、あるいは、ただ漠然とした「戻らなければ」という義務感だったりする。
そして、今、私の心はゆっくりと、しかし確実に元の場所へ引き戻されようとしていた。
美術館のひんやりとした空気は、部屋の温度に変わり、海のカフェの潮風は、エアコンの微かな送風音になる。
温かい記憶は、遠い日の残像へと薄れていく。
私はゆっくりと目を開けた。
やはりそこは、いつもの自分の部屋だった。
ただ、心だけが連れてきた、ほのかな潮の香りと、古い絵の具の匂いが、まだ微かに残っているような気がした。
「いつか、本当に、行きたいな」
そう呟き、私はベッドから降りた。
心だけの逃避行ではなく、いつか本当に、あの海辺のカフェで、波の音を聞きながらコーヒーを飲みたい。そんなささやかな願いを胸に、私は再び現実の日常へと足を踏み出した。
7/12/2025, 8:08:30 AM