海月は泣いた。

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変わらないものはない


僕らは寂しさを埋め合わすようにそばに居た。悲しみに押しつぶされそうな夜は貴方が隣で光を教えてくれた。貴方が部屋の隅で膝を抱え涙を流している時は僕が見つけ出して手を差し伸べた。持ちつ持たれつ、とはこの事で、僕らは助け助けられ支え合ってきたのだ。と、そう言えば聞こえがいいけど実際はお互いに依存し合うことで、僕らは何とか人の形を保っていたのだ。不幸だね、って、僕らが一番不幸だね、って。でも貴方がいるから幸せだな、って。そうやって同じ会話を飽きずにずっと繰り返していた。このままじゃダメだって頭のどこかで分かっていたけど、貴方だけの僕、僕だけの貴方、という誰にも侵せない認識が、貴方の唯一の隣が、酷く心地よくて、どうしてもその生温さに浸っていたかった。

でも、貴方は変わった。如法暗夜の瞳には煌めく光たちを宿して、不健康な肌の白には桜色をじんわり滲ませ、大きな体躯を窮屈そうに丸めていた背中は真っ直ぐに、じとじととした足取りは悠々と自信に溢れたものに、そうやって少しずつ強く美しく変わった。あんなに悲しくって辛くって仕方がないと泣いていたあの頃の暗い表情はもう見当たらない。白い歯を垣間見せ花も蝶も照れてしまうような笑顔で、楽しそうにテノールを揺らす。昔の彼を知らない人が見たら別の人だと信じて疑わないだろうと思うほどに、彼は変わったのだ。
いつぶりか分からない二人きりの帰路は、会話がなくて何だか居心地が悪かった。彼の隣はいつだって温かくて、例え言葉を交わさなくたってお互いの温もりを感じるだけで、それだけで良かったのに。いつからこんなになってしまったのだろう。彼は美しくなったから、こんな僕が隣にいることがおかしく思えてしまう。当たり前に隣にいたのに、今ではそれに違和感まで覚えてしまうことが悲しい。くだらない噂も他愛もない話も浮かばなくて、僕はただ真っ黒な夜空に輪郭が溶けて、星でも浮かんでしまいそうな黒髪を数えていた。そうしていたらいつの間にかいつも通りの分かれ道に来てしまって彼が反対に行こうとしている姿を見て僕は慌てた。前は暗いから、夜は怖いからと断ってもしつこく家まで送ってくれたのに、そんなこと無かったみたいに自分の家に真っ直ぐ向かう姿がなんだか信じられなくて、思わず口をついてでた。
「ねえ、行かないでよ」
声は震えた。訳も分からず泣きそうになって、涙が溢れないように必死だった。声の震えを気にする隙間なんてちっぽけな僕にはなくて、当然泣いてしまいそうなのが彼にバレる。彼は驚いて心配そうな顔を一瞬だけして、すぐに暗い顔をして目を伏せた。重たそうに口が動くのを僕はただただ呆然と見つめることしかできない。次に続く言葉を聞くのが怖くてしかたがなかった。
「俺とお前は、一緒に居たら、きっとダメなんだ」
頭を殴られたみたいな衝撃だった。ずっと心の奥に押し込んで見ないようにしていたことを今一番大切な人に言われたのだ。僕は、どの言葉も間違っている気がして、結局返す言葉が見つからず黙った。黒目を忙しなく泳がせるしか出来なくて、そんな僕の情けない様子を彼は黙って見ていて恥ずかしかった。
「ぼく、は貴方がいないとだめです、だめなんです」
ぼろぼろっと涙が溢れ落ちる。何よりの本心だった。
「…そんなことないよ」
すぐに否定されて僕の心は心底傷ついた。何か言ってやろうとまで思ったけど、彼の瞳が真っ直ぐで強くてその眼差し一つで僕は何も言えなくなってしまった。
「お前は俺といるといつも不幸そうだ」
「ちが、僕は、貴方がいればそれだけで…」
もう涙を止めることなんてとうに諦めた。大粒の涙が僕らの間に落ちてアスファルトを濡らす。あんなにピッタリとくっついて一つになってしまうくらいに寄りかかっていたのに、今の二人の間には先の見えない深い溝があるみたいだ。
「お前は変わったよ」
変わったのは貴方の方なのに、という言葉は音にはならずに僕の心の中に落っこちた。
「お前は、幸せになるべき存在だ。愛されるべき存在なんだ。…だから、俺なんかと一緒に居たらだめだよ」
「…僕の大切な人を、そんな風に言わないで」
「…うん、ごめんね」
悲しくって仕方がないのは僕の方なはずなのに、彼は泣きそうに顔を歪めるから僕はやっぱり何も言えなくなって、彼の震える細い睫毛を見ていた。暗闇に落とされたみたいな気分で、心の中は絶望に染っていた。
「お前は幸せになっていいんだよ」
言葉とは裏腹に彼は酷い顔をしていた。まるで、幸せになるなって反対のことを言われているみたいな。そんな引力じみた強さに目を逸らせない。
「ずっと、お前のこと縛り付けてた。分かっててずっと…ごめん、ごめんね」
二人きりで無ければ聞こえなかったんじゃないかというくらいの小さな声で彼は言って、僕を置いて歩き出した。僕に背を向けて、一度も振り返らなかった。ごめん、ごめんねって彼の弱々しい声がずっとずっと僕の頭を揺らしていた。それは、あの頃みたいな脆さだった。彼の大きな背を現実味がなく見つめていると、彼が涙を拭う素振りを見せたから、それで僕はようやく現実だと気づいて、わんわん子供みたいに泣いた。彼が振り返って、嘘だよごめんって優しい顔をして走って来てくれるんじゃないか、という淡い期待は叶うはずもなかった。
互いの泣き声だけが陳腐な夜空に響いて月だけが僕らを見ていた。

12/26/2023, 5:02:29 PM