フラワー
駅から歩いて三分のところにある花屋の店員。その同年代らしき男性は白いカッターシャツを第一ボタンまで閉めていて、花屋のロゴが入った深緑のエプロンにはシワひとつない。一度、サークルの先輩の卒業祝いで花束を買いに行った時のこと。卒業シーズンだというのにお客さんがいない店内、じゃんけんで負けて花束の準備を全て担うことになったという嫌な事実、初めて行く店には心の準備がいる性格、入るには少し敷居が高そうな場所。全ての要素がこの店舗に入ることを拒否していたのに、いざ店の前に行くと話しかけやすそうな青年が迎えいれてくれた。
「どのような花束をお作りしましょうか。」
客が一人だったためなのかは分からないがすごく丁寧なカウンセリングと、彼の幼い顔には似つかない心地良い低音ボイス。慣れていない自分にも優しく提案してくれてお値段もお手頃だった。そこから事あるごとに通うことになった。家族の誕生日、母の日、父の日に飽き足らず、人の誕生日にはちょっとした花を贈ることで大学でのあだ名はすっかり「花屋」で定着した。花自体を気に入った訳でもなく、この花屋自体をすごく気に入った訳でもないが、彼に会いたいという気持ちが日に日に強まっていった。
「川崎さん、いらっしゃいませ。」
名前を覚えられて、優しい笑顔で迎えてくれるまでの関係性にはなったものの、それ以上の発展は特にない。売上には間違いなく貢献しているが、実際彼からはどう思われているのだろうか。ただ異常に花を頻繁に買っていく近寄りがたい客と思われているかもしれない。彼に近づくために通っているのに近寄りがたいと思われるのは不本意だ。しかし仕方のないことでもある。例えばここが花屋ではなくホストクラブなんかだったら、楽しくおしゃべりをすることも彼の人となりを聞くことも料金のうちに入るのだろうが、残念ながらここは花の料金しか支払わせてくれない。彼のことで知っていることといえば、名札に書いてある名字が"あずま"なこと、基本水曜と土日のみバイトで入っていることくらい。カウンターの奥にホワイトボードで書いてあるシフトをお会計の時に毎回こっそりチェックしているのでこれらは間違いない。今日もまたいつも通りの会話を交わして綺麗な秋海棠の苗木を買った。しかし、花を見繕っている間に小雨が降り始めてしまった。今日は雨が降る前に早く帰ると思って家を出たが、授業も終わりせっかくの水曜だし寄って帰ろうと考え直したばかりに傘を持って来るのを忘れた。
「川崎さん、傘お持ちでないんですか。」
「…え、あ…はい。忘れてしまって。」
「ちょっと待っていてくださいますか……良かったら、これ使ってください。」
「え、これ…」
「私物で悪いんですが、こんなので良ければ。」
差し出されたのは黒い大きい傘。戸惑っている間にも彼は言葉を続ける。
「前は貸す用の店の傘置いてたんですけど、花屋なんてみんなあんまり来ないからよく借りパクされちゃって店長が怒って傘廃止したんですよ。だからこれ、店長には内緒で。」
しっと口元に指を一本たてて彼はいたずらに笑った。初めて見たその表情と、いつもより多い会話に頭が混乱する。
「え、いや、え…でも私物ってことは…あ、あずまさんはこの後どうするんですか。」
「家近いんで大丈夫です。」
初めて呼んだあずまの名前に緊張してちょっと噛んでしまった。家が近いとかいう新しい彼の情報についていけない。脳の回転が停止しそうになりながら言葉を紡ぐ。
「…い、いいんですか?」
「はい。」
「…自分がこれ、借りパクしちゃうとか思わないんですか。」
「川崎さんなら大丈夫かなって。」
そう笑った彼を見て、この気持ちをやっと恋と認めた。
4/7/2025, 1:25:46 PM