美佐野

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(二次創作)(優しくしないで)



 イミル村とは全く違う人の多さに、視界がくらりと揺れた。
 イカの魔物に襲われたり、進路が傾き小さな島に上陸したりと、散々だったカラゴル海の航海をどうにか終えて、ようやく辿り着いたトレビの街は、コロッセオの真っ最中だった。ロビン、ジェラルド、イワンと一時別れ、メアリィは空いている宿屋を探しているところだった。
「っ……」
 身動き取れないほどではないにしろ、故郷とは比べようもない程賑やかだ。次から次に、目が滑る。早く宿を見つけてしまいたいのに、これではどれだけ時間が掛かることやら。コロッセオを見にきた人、参加しにきた人、そういった人々を相手に商売をしようと集まってきた人。年齢も性別も職業も違う多様な人々の塊。やや気温も高い気がする。メアリィは、一旦近くのベンチに腰を下ろした。息をゆっくりと吸って、吐いて、気持ちを落ち着かせてからもう一度、人々に視線を戻す。
 その中に、見覚えのある、水色の長い髪を見かけた。
「アレク、」
 そんなわけがないのに、メアリィは思わず立ち上がった。その人が消えた方向に、急いで向かう。その瞬間、踏み出したはずの足から急に力が抜けて、バランスを崩す。どうにか身体を捻って、石畳に顔をぶつける事態は防いだが、代わりに周りから悲鳴とどよめきが湧き上がる。
「おい、嬢ちゃん大丈夫か!?」
「アンタ、顔色が悪いよ!」
 大丈夫です、と答えたはずの口は何も発さず、まるで吸い込まれるように意識が薄れていく。急に倒れてしまった少女に、周りの人々はいよいよ色めき立った。

 次に目を覚ました時、メアリィはどこかのベッドに寝かされていた。ゆっくりと目を開いたはずなのに、視界がまだ揺れている気がする。
 覚束ない体と裏腹に、意識ははっきりしていた。
 あの時見た、あの水色の長い髪。あんな色の髪の人間なんて、マーキュリー一族以外にいない。そしてメアリィは、自身以外にあの色の髪の人物を、一人しか知らなかった。
(アレクス……)
 メアリィはマーキュリー灯台を守る使命を背負う代わりに水を自在に操る力と癒しの祈りの力を持つ、マーキュリー一族の少女だった。今や数えるほどしか残っていないこの一族であったアレクスは、かつてメアリィの父に師事していた。父が亡くなった後不意に姿を消した彼と、再開したのがマーキュリー灯台の頂上にて。
 彼が、一族の使命に反し、灯台に火を灯す手助けをしていたと知ったのも、その日だった。
(アレクスがトレビにいるはずがないのに)
 アレクスが与するサテュロス一行を追う旅をしているメアリィだが、彼らは自分たちより前の船便に乗っていたと知っている。
 目を閉じたまま、そんなことを考えているうちに、視界の揺れも落ち着いた気がする。とにかく、今自分の置かれている状況を確認するためにも、起き上がらなくては。メアリィは、ゆっくりと目を開き、身体を起こそうと力を込めた。
「おや、目が覚めましたか」
 まさか、と思った。
 自分よりは大きい手が、額の前に翳された。かと思えば、プライ、という声と共に、じんわりと優しい蒼の光がメアリィを包む。そんな、と声にならない言葉が胸に浮かぶ。おおよそここにいないはずの人なのに。
「ア、レクス……?」
「あなたは、倒れたんですよ、メアリィ。街中でいきなり」
 よく知った手が、前髪を優しく撫でる。幼い頃、何度か触れられたものと同じ手つきに、懐かしさが込み上げる。
「あなた方の船旅は、大変なものだったそうですね。クラーケン、素人のオール漕ぎ、宝島への意図せぬ上陸……色々と噂はお聞きしました」
「アレクス、どうして、ここに……」
「野暮用ですよ」
 仰向けのままの姿勢では、手が誰のものかはっきり視認できない。答えは十分に与えられていたが、それでも確かめたくて、メアリィはもう一度身体を起こそうと試みた。気が付いたのか、手が離れ、背中に回される。そっと起こすのを手伝ってくれる。濡れたように冷たい髪の一部がメアリィに触れた。
「アレクス」
「そんなに何度も呼ばなくても、私はここにいますよ」
 穏やかに微笑まれて、メアリィは胸が少しだけ締め付けられた。
 改めて周りを見れば、ここは宿屋の一室のようだ。個室ではなく、空のベッドが3つはある。ベッドサイドには小さな机があり、可愛らしい花が生けてあった。ロビン達を見かけたらこの宿屋にメアリィが運ばれたことを伝えるよう、人々に頼んであるとアレクスが話す。ついでに、彼は今単独行動中で、サテュロスたちは既にこの街を発ったとも。
「…………」
 何故、一族の使命を裏切ったのかと、尋ねたかった。何故、サテュロスたちと行動を共にしているのかと、訊きたかった。しかしメアリィに出来ることは、ただアレクスを見つめるだけだ。
 どうやって切り出せばいい?
 何と言えばいい?
 思考がぐるぐる、どろどろと、回り、混ざり、溶け合って掴めない。ただ、無言で見つめる視線に、アレクスが気付いた。
「そういえば、ここの女将から林檎を分けてもらいました。擦りおろしてありますが、食べますか?」
 アレクスに尋ねられ、メアリィは初めて喉の渇きを自覚した。反射的に頷くと、では、と立ち上がり、アレクスが手ずから林檎を食べさせてくれる。幼い頃のようだ、と感じて、思わず目尻に涙が滲む。アレクスの手が止まった。
「おや?」
 彼の手が、メアリィの額に触れる。
「やはり、まだ熱があるようです。私のプライでは、あなたのように病を癒す力は弱い」
 そのまま、もう少し眠るように促され、彼の手でそっと身体をベッドに押し倒された。再び、視界が知らぬ宿屋の天井になる。言いようのない寂しさに、胸がまた苦しくなって、彼の名が口から溢れた。
「アレ、クス、……」
「はい」
 ベッドがやや沈む。どうやらアレクスは、メアリィのそばに腰を下ろしたようだ。
「あまり効果は期待できませんが、もう一度プライをしましょうか?それとも、あなたが眠るまで、手を繋いでいましょうか」
 ややからかうような、それでいて慈しむようなアレクスの声が心を包み込む。なんと甘美で、温かくて、安心できるのか。
「大丈夫、ロビン達が来るまでは、私がそばにいますから……安心してお眠りなさい。目が覚めたら、今よりずっと楽になってますよ」
「…………」
 どうして、ここまでしてくれるのか。一族を裏切ったくせに。ああ、違う、そうじゃない、まずはお礼を伝えなければ。そして何を考えているのか、訊かなくては。焦る気持ちと裏腹に、思考がどんどん散らばっていく。熱があるせいだろう。そして、言葉通りアレクスは、メアリィの手を握って優しく撫でている。宥めるように、あらゆる不安を取り去るように。嬉しいのに、同じぐらい、胸が張り裂けそうな思いがする。
(どうか、優しくしないで)
 アレクスのことが、いよいよ判らなくなる。それは与えられた安らぎの中に新たに生まれる恐怖の芽であった。



5/4/2024, 11:56:37 AM