ピアノを始めたのはいつだっただろうか。正確には覚えていないが、小学生の頃には鍵盤に指を置いていた。初めて弾いた曲さえ覚えていない。
有名な曲といえば「エリーゼのために」だったりとかだろうか。それすら、右手で少しメロディを弾けるだけになってしまった。
そう思えば少し淋しく、残念なことだが、仕方の無いことだった。金銭的な余裕がなくなってピアノを辞めたのも、時間が経ち、曲を忘れたのも。
しかし、私が曲を弾いたという事実だけはこの壊れた電子ピアノと共に残っている。それだけで充分だ、と納得するようにした。
誰でも弾けるのかもしれないが、私は「きらきら星」がお気に入りだった。時々、気が向いたら、ほんの少しだけ弾いている。問題なく指を動かせるのはかつての事実があったお陰だろうか。
死人は消えたらあの世へ行くという。なら、記憶は何処へ行くのだろうか。事実は何処へ行くのだろうか。死人と共に消えるのだろうか。それとも、また別のところへ行くのだろうか。
願わくば、こんなところへ留まらないで欲しい。ピアノならば、美しい旋律を奏でてくれる誰かの元へ。もっと裕福な家庭で。忘れられないところで。
ふと我に戻って、私は電子ピアノの解体作業を進めた。
「遠くの空へ」
8/16/2025, 12:40:05 PM