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残業後対話篇 死さえも命の一部なのだから(テーマ 枯葉)


 これは、西暦2020年を超えた日本の、ある会社での、一人の会社員の、残業が終わってから帰宅するまでの心の中の話。ひどく狭い範囲の話。



 社屋が新しくなってから、通勤ルートは会社からの帰り道には枯葉一つ落ちていない「街の道」になった。

 以前の社屋は山際にあったため、道を選べば完全に山道を通ることもあり、枯れ葉だらけ、土だらけの道を歩くこともあったのだから、大変な変化である。

 この短い話の主人公の彼は、今日も残業をした後、暗い中を帰宅途中であった。



 彼には、自問自答する際に自分の中に別の人格を作り、その人格と対話する奇妙な癖があった。学生の時に生まれたその人格を、彼はイマジナリーフレンドと心のなかで呼んでいた。
 別に二重人格というわけではない。全部、彼が自分で想像して自問自答しているだけだ。

『 街の道だね。葉っぱ1つ落ちていない。アスファルトが古びたら張り直す、ゴミを掃除する、多くの手間をかけて維持されている金持ちの道だね。』

 生意気な事を言っているように見えるが、彼が言わせている疑似人格だ。

(歩きやすくて良い。)

『山道、デコボコだし、坂道だらけだし、滑りやすいし、まあいいとこ無いからね。』

 山道はそもそも車が走る公道と比較すべきものではない。

 比較対象にするなら、途上国で使われる、土のうと土でできた道だろうか。
 見栄えは良くないが、特殊な材料がほとんどいらないため、自分たちだけで維持できるメリットがある。

「あ。茸だ。」
 道端の土の部分に、小さな茸が生えていた。


「先輩、拾って食べるとか、まさかしませんよね?」
 珍しく、彼には今日の帰り道に同行者がいた。
 職場の後輩だ。

 イマジナリーフレンドに心の中でしか返答しないのは、人がそばにいるからだった。

( 人と一緒に歩いているのに、まともに会話しないのも、褒められたことじゃないか。)

「拾い食いなんてしない。ましてや茸。腹を壊す。」
「いやー、黙って歩いているかと思えば、道端を見て『 茸だ』ですもん。心配になりますって。」
「生えているのが仮にマツタケでも食べないぞ。」
「先輩、マツタケがそこら辺に生えてるわけないじゃないっすか。」
 マツタケは、現代の日本では高級茸として取り扱われている。

『むかしは松茸、そこら辺の山で簡単に取れたって聞いたことあるけどね。』
 そう。誰に聞いたのだったか。

 松茸は日当たりがいい場所にでき、枯葉や枯れ枝がない方が発生しやすい。
 電気・ガスなどが各家で利用されるようになる前、囲炉裏などで火を利用していた時代には、「燃料」として山の枯葉・枯れ木の枝は近くの人に回収されていた。
 そのため、松茸は珍しいきのこではなかった。

 しかし、電気が引かれ、ガスが入り、手軽に火を扱えるようになったら山に入って枝葉を拾ってくる人はいなくなり、山は枯葉・枯れ枝だらけになった。
 当然の帰結として、松茸も激減した。というわけだ。

「マツタケも、昔はその辺に生えてるキノコだったの。」
「マジですか?」
「山が枯葉や枯れ枝だらけで放置されるようになってから激減したけどね。電気やガスがない時代の話だ。」 

 昔は椎茸のほうが高かったのだ。
「電気ガスなしはちょっと………。マツタケ食い放題でも、そんな不便と引き換えはできないッスね。」


「枯葉が増えて減るものもあるんスね。栄養があってマツタケも増えそうなものですけど。」
「山に住んでいるのはマツタケだけじゃないから。マツタケは陽の光もいるし、枯葉で増えた生き物に生存競争で負けた感じだ。」
「食物連鎖ッスね。」

 枯葉は地面に落ち、微生物によって分解され、植物の栄養になる。
 その栄養で育った植物を動物が食べる。

 もう何の役にも立たないと思われるものも、この世を構成している立派な一部なのだ。

『まあ、そもそもマツタケはありがたがらない国も多いし。アレを連想させるとかで。』
 イマジナリーフレンドが下品なことを言い出した。

「 下品だ」
「 え!?食物連鎖が!?」

 彼はしまったと口をつぐんだ。人と喋るときに変なことはすべきではない。




 後輩と別れた帰路、イマジナリーフレンドは話を続けた。
『キノコはともかく、そもそも人間は死骸をよく使うよね。肉を食べるだけでなく、皮を使って服や靴を作るし、そもそも木も植物の死骸だ。』
「 だから?」
『 その割に、自分の周辺に『それ』と分かるものを置くのを嫌う。枯れ葉も虫や動物の死骸も。』
「 そりゃ、そうだろ。虫が湧くし、病気になるかもしれない。清潔さを求めた結果だろ。」
 彼は、周囲に人が居なくなったので喋りたい放題だ。
 怪しい人に見える。まあ、最近はイヤホンで電話する人もいるし、言い訳はかろうじてできる。

『でも、死んだ後も終わりではない。山道なんて、虫の死骸はいくらでも転がっている。それが死骸のままなら、山は死骸だらけになってしまう。』
 そう。街の道で猫が死んでいたら、市民の通報によって役所の道路管理の人が回収していく。これが街の動きだ。
 それが家の庭なら持ち主が処理する。

 しかし、自然はそんなことはしない。
 山で死んだ動物や虫はそのままだ。
 小動物や虫や微生物が死骸を食べる、発酵する。分解される。
 そして土に還る。

 生き物は本来、皆そうだ。

「街はアスファルトで固めちゃったからね。そして、死骸が分解されて土になるまで待てないのが人間だ。」



 樹上の若葉はやがて枯れ、枯れ葉となって枝を離れ、地面に落ちる。

 落ちた枯れ葉は葉としては用をなさない。しかし、微生物に分解された葉は、地面に肥料として利用され、次の植物の命を育む土壌となる。
 この世界は、死すら次の命のための土台になる。

 人も同じ。
 死んでしまって、考えることができなくなっても、火葬されて骨だけになったとしても、その体を構成していた原子は、消えて無くなるわけではない。
 姿を変えて、水と空気と灰と、骨になり、我々が住んでいる世界を構成する一部となって循環する。

 循環するが、同じように構成されて同じ人が再現されることはない。もうバラバラにされて世の中に放たれてしまったのだから。
 灰になった木の枝を、煙と水分と熱を加えても元の枝に戻らないのと同じだ。それが死なのだ。

 我々は多くの死の上で生活しており、今度は自分の番になるだけなのだ。

「薤上の露、何ぞ晞き易き。露、晞けれども晞くも明朝、更に復た落つ。人、死して一たび去らば何れの時にか帰らん。」
 昔、一時詩吟を習っていた時期があったので、口ずさむ。

 薤の葉の上の露は乾いて消えやすい。露は乾いても、翌朝またある。だが、当然、その露は昨日の露ではない。
 昨日の露は乾いてしまったのだ。もう二度と同じ露ではないのだ。

 人の死も同じ。一度去ってしまえば、同じ生き物としては二度と還ることはない。

『それは枯れ葉じゃなくて葉の上の露だけどね。』
 イマジナリーフレンドは突っ込んで締めた。

( 先輩……。独り言に歌まで。やっぱり働き過ぎでアタマイカれちゃった?)
 そして、影で後輩が戦慄していた。

2/20/2024, 3:49:59 AM