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 三日月


彼はいつだって穏やかに笑っていた。
面倒事を押しつけられても、理不尽な役回りを任されても、彼が声を荒らげることはなかった。
いつの間にか雑用も仲裁も彼の仕事になり、周囲はそれを当然のように受け取っていた。
それでも彼は不満を口にすることもなく、大したことじゃない、と困ったように笑うだけだった。
損な人だと思っていた。

彼と深く関わる気はなかった。
そんな中、些細なトラブルに巻き込まれた私を助けてくれたのが彼だった。
それがきっかけとなり、彼との接点は確実に増えた。
私にとって彼は本来なら避けるべき存在だった。
なぜなら彼の女王こそが私の標的で、標的に最も近い存在である彼と深く関わることは明らかなリスクだったからだ。
それでも私は、彼と行動を共にする危険より、彼の動向を把握できる利点のほうが大きいと判断した。何より、周囲に慕われている彼を不自然に避ければ余計な注意を引いてしまう。警戒される理由を与える方が、よほど危険だった。

小さな齟齬が生じ始めたのは、その頃だ。
準備していた手順が微妙に噛み合わない。想定していなかった妨害が、こちらの動きを先回りするように現れる。違和感はあった。だが、彼を疑う理由にはならなかった。
計画は慎重に練り上げ、彼に悟られるような痕跡も残していない。何より、彼自身に不自然な動きは見られなかった。相変わらず温厚で、善良で、頼まれれば断れない男のままだった。疑念を抱くほうが過剰反応に思えた。

だから私は、その違和感を切り捨てた。
この計画に綻びはないと自分に言い聞かせながら。

根回しは終わっていた。あとは動くだけ、そう確信していたその日、すべてが崩れた。情報は漏れ、協力者は離れ、逃げ道は塞がれた。計画は外側からではなく、内側から崩壊した。

行き場を失った私の前に、彼は現れた。
灯りの落ちた部屋で彼の顔を見ることはできない。
ただ一箇所、窓から差し込んだ月明かりが彼の口元だけを淡く照らし出している。
その唇は、三日月のように歪んだ弧を描いていた。

私は、すべてを理解した。

最初から、この結末は決まっていたのだと。
――すべてが、彼の掌の上だった。

1/9/2026, 7:35:45 PM