「ねぇ、宮司様。人の心ってどこにあるの?」
彼の背中に凭れながら、問いかける。
「何ですか。急に」
「少し、気になったから」
特に深い意味はない。
ただこの一年を思い返していた。
忘れる事の出来ない過去と再会し、親友の過去に触れた。新しい友人達の過去を知って、こうして一年が終わろうとしている。
それぞれ自分ではない過去があり、そして今に続いているのだと思うと、不思議な気持ちだった。
「一番最初から覚えているの。女の子だったり、男の人だったり。全部私じゃないのに、覚えてる。それって心が覚えているからなのかなって考えて。じゃあ、心ってどこにあるんだろうって思った」
そもそも、心とは何だろうか。
首を傾げる。ぐるぐると回る思考に楽しくなって、くすくすと一人笑った。
「紺《こん》」
「何?宮司様」
笑いながら、彼に答える。背中越しに伝わる体温が、心地好い。
暖かいから、こうしていつもは考えない事を考えるのだろうか。
「昔、人間の男達の心を弄び、心を喰らう事を好む、悪趣味な雌狐がおりました。アレは人間の心を単なる臓腑だと認識しておりましたよ」
「臓腑、って事は心臓?」
「えぇ。それから脳を差しておりましたね」
胸に手を当てる。規則正しく刻まれている鼓動に、でも、と眉を寄せた。
これらは今の自分のものであって、過去の自分のものではない。過去を覚えているのは心ではないのだろうか。
「しかしアレにも、心を傾ける者が現れたようでした。その者に振り向いてもらおうと、形振り構わぬ必死な様は随分と滑稽でしたが、その思いは終ぞ叶わず。その時のアレは、心を幻と評しておりました」
「幻?現実にはないって事?」
「目に見えぬもの。触れられぬものの意味でしょう。心を喰らっても満たされぬと、嘆いておりました故」
憐れな事ですね、と語る彼の声は、どこか優しい。
彼は今、どんな表情をしているのだろう。記憶の中にひとつもないその狐の事が、彼との関係が気になった。
「宮司様とその狐さんは、仲が良かったの?」
「紺」
びくり、と思わず肩が跳ねる。
空気が少し冷えた気がする程の、冷たさを含んだ声で名を呼ばれた。
その狐との関係を聞かれたくはなかったのだろうか。
謝ろうと体を起こそうとするが、それよりも速く狐の尾が腰に巻き付く。そのまま抱え上げられて、彼の膝の上に乗せられた。
恐る恐る彼を見上げる。けれど彼の表情は怒っているようには見えなかった。
「紺。ワタクシ以外の狐を、そう親しげに呼ばないで下さいな」
「え?えと、ごめんね、宮司様」
想像していたものとは異なる言葉に、目を瞬く。
「アレとは同じ狐の腹から生まれただけの事。親しくなどありませんよ。それにアレは既に狐ですらないのです」
狐ではない。人になったのだろうか。
「アレは諦めきれず、何度も恋う者が産まれ落ちる度、側におりました。そしていつしか化生に堕ちてしまったのです」
「それって」
「恋う者を閉じて、己に縛りつけるために惑わし続けているのでしょうね。アレは存外寂しがりでしたから」
呆れを滲ませながら呟いて、彼の手が額に触れる。
少し冷えた手に、目を細めて擦り寄った。
「少し熱がありますね。もう休むといいでしょう」
「大丈夫だよ。これくらい」
「その言葉は信用出来ません。笑って、簡単に死んでいくのが人間ですから」
そう言われては、何も言えない。
大丈夫と言いながら仕事に出て、そのまま帰って来れなかった自分がいた事を思い出した。
きゅっと、彼の服を掴む。離れたくないのだと行動で示してみれば、彼は困ったように息を吐いて、笑った。
「仕方ありませんね。眠るまでですよ」
「ありがとう、宮司様」
言葉にしなくても応えてくれる事が嬉しくて、彼に凭れて目を閉じる。
暖かい。彼は最初の時から暖かく、優しかった。
今まで彼から離れたいと思っていた事を、残念にすら思う。
もっと早く彼に触れれば良かった。そうすれば無駄に怖がる事もなく、きっと繰り返す事もなかったのに。
「宮司様。結局、心はどこにあるんだろうね」
目に見えず、触れる事も出来ない幻。手に入らないもの。
けれど確かに存在している。こうして彼に心引かれて、触れているだけで心が弾むのだから。
「どこでしょうね。もしかすると、どこにもないのかもしれません」
穏やかな彼の声が、寂しい事を言う。
重い瞼を無理矢理開けて、彼を見上げる。静かに微笑む彼と目が合い、あぁそうか、と意味もなく納得した。
「少なくともワタクシの心は、ワタクシの元にはありません。紺の側にあるのでしょうね」
「そっか。もらったんだ…じゃあ、私の心。代わりに、狐さんが、もらって」
ふわふわと、心地好い気持ちで彼に望む。
目を閉じれば直ぐに意識が微睡んで、このまま眠ってしまいそうだ。
「紺の心は、紺が持っていて下さいな。ワタクシの心と紺の心。二つ重ねていれば、寂しくはありませんからね」
「寂しく、ない?」
「えぇ。ワタクシも寂しがりな狐ですから。たとえ心が幻だとしても、紺の元にあると思うだけで救われます」
そっか、と呟いて、彼に擦り寄り笑った。
心と心を重ねる。二つを一つにする。
そんな事を思い描きながら。
穏やかで幸せな心地で、眠りについた。
20241213 『心と心』
12/13/2024, 10:06:32 PM