お題:貝殻
あの子が残したのは、たった一つの爪の先ほどの瓶に入った桜貝。
僕はそっと手のひらに乗せて。じっと眺めた。
海からやってきた、あの子が身につけていた、たった一つのアクセサリー。
本当なら、海に返してあげるべきなのだろう。
でも僕には出来そうもなかった。
この硝子の小瓶を手放してしまえば、僕と、あの子をつなぐものが消えてしまいそうで、とても、怖かった。
もう二度と会えないということを、受け入れなければならないということを。
あの子は海岸に流れ着いて来た。その美しさに一目で奪われてしまって、僕の家に連れ帰って看病をした。
あの子は最後まで言葉は話せなかったし、文字も書けないようだったし読める様子もなかった。何があったのかわからないけど、足も痛めているようだった。
そんなあの子はある日、僕が持ってきた王子様とお姫様の絵姿を見て目を輝かせると、お城に連れて行ってとしきりに身振り手振りをし始めた。
それだけで、あの子は王子様にあいたくて、海の果てから来たのだと分かってしまった。
たまたま僕の叔父さんがお城の庭師をしていたので、連れて行く事はできたけど。それから先はどうなったのかわからない。
久しぶりに遊びに来た叔父さんから、僕が連れてきたあの子を、いつの間にか城に召し上げる話になっていたから。
だから、僕があの子をもう一度見たのは。
王子の船が、隣国の姫との結婚式のために隣の国に旅立つのを見えなくなるまで、見送りの人々が誰もいなくなるまで、やがて満月が空に高く登っても水平線を見つめ続けていた。
そうして僕があの子に手を差し伸べようとしたその瞬間、あの子は海に飛び込み、僕の目の前で泡になって消えてしまった。
最後まで、あの子は僕を見なかった。
僕はそっと目を閉じ、あの硝子の小瓶をそっと撫でた。
おだやかな波の音が、僕の耳に届く。
しばらくそうしていたけれど、やがて僕は目を開いた。
今日はこんなに穏やかな夜の海だから。
本当は僕のところに残すつもりのなかった王子様への想いは、あの子とともに海に帰るべきなのだと。
長い時間をかけて僕はようやくそのことを受け入れると、硝子の小瓶を波打ち際にそっとおいた。
さざ波が、僕の想いとあの子の王子様へ届くことのなかった想いを、代わりに届けようとしているかのように、桜貝の入った小瓶を静かにさらっていった。
9/5/2023, 12:40:46 PM