sairo

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しゃん、と響く鈴の音。
足を踏み出す。頭を垂れる。
暗い広間には、自分以外に誰の姿もない。笛や太鼓の音もなく、自分の中の記憶だけを頼りに決められた動きを繰り返す。

「こんな夜更けまで練習ご苦労様。でもいい子は寝る時間だよ」

呆れた声と共に、部屋に明かりが灯される。
急な眩しさに目を細め、動きを止める。何度か瞬いて、部屋の入り口でこちらを見つめる彼女に視線を向けた。

「夜更かしなんて悪いことしてないで、さっさと寝なさい」
「もうちょっとだけ……」
「駄目。ルールはちゃんと守らないと。それに明日も早いんだからね」

そう言われてしまえば、これ以上反論することなどできない。鈴を片付けながら、小さく溜息を吐いた。

この村には、いくつか決まり事がある。
一つ一つはとても些細なことだ。夜更かしをしない、朝晩の食事は家族そろって食べるなど、子供に教えるような簡単なもの。
村の決まり事だと、誰かに言われたわけでもない。文字に記されているでもない形のないそれらは、けれど村の誰もが自然と受け入れ守ってきている。

「本当に真面目なんだから。お祭りまで、まだ時間があるでしょう?」
「そうだけど……でも何だか落ち着かなくて」

俯きがちにそう零せば、彼女はまた呆れたように真面目だと呟いた。
明かりが消され、部屋が暗くなる。ぼんやり浮かぶ彼女の影を追って、部屋を出た。

「今から気負っても仕方がないでしょうに……どうせ、神様なんていないんだから」

迷いのない声音。彼女が当然のことのように神様はいないと告げる度、心の底に黒く固いものが沈んでいくような気がして苦しくなる。

「一度壊れたものは、元には戻らない。外側だけ同じように直しても、完全に同じにはならない」

歌うように彼女は囁く。彼女と出会ってから何度も聞かされていたことだ。

遠い昔、ここに暮らす人たちには決まり事など一つもなく、自由だった。
だから間違った。自由を振りかざし、越えてはいけない境界を踏みにじってしまった。
祭事を否定し、社を壊してしまったのだという。村の全ての人がそうではなかったのだろうけれど、社を失った神様は村からいなくなってしまったらしい。
神様がいなくなって、しばらくは村に変わりはなかった。
一年過ぎ、二年過ぎて。
そして三年目。
その年は、雨が降らない日が続いたという。
田畑は枯れて、人々は食べるものがなくなった。飢えによる苦しみの捌け口を求め、最後には社を壊した人が犠牲になったらしい。

酷い有様だったと彼女は言った。まるで直接見てきたかのように、当時のことを詳細に記した書物を読み聞かせながら、彼女は何度も教えてくれた。

「自業自得と言ってしまえばそれまでだけど。彼らを止めようとしなかったのに、率先して責め立てるのは滑稽で、とても哀れだね」

自業自得といいながら、滑稽だといいながら、彼女は少しだけ悲しそうに笑う。
その笑顔を見る度苦しくて、自分にできることをずっと探し続けてきた。

「神様」
「だから何度も言ってるけど、私は神様なんかじゃないよ」

無意識に溢れた言葉を、彼女は否定する。

「何度言っても直らないね。夜更かしをする。間違った認識を改めようとしない……あと何個、ルールを破るのかな」
「ごめんなさい」

溜息を吐く彼女の背に謝りながらも、内心ではきっとこのまま自分は変わらないのだろうと思っている。
このまま一人だけ決まり事を破り続け、きっと最後には彼女のようになるのだろう。
彼女は神様ではない。それを理解している。
何度も読み聞かせてくれた書物の字は、彼女の筆跡と同じだった。

不意に彼女が立ち止まる。
気づけば、自分の部屋の前まで来ていた。

「ほら、早くお休み。よく寝て、ご飯を食べて、勉強も頑張るんだよ」

部屋の戸を開けて、軽く背を押される。大人しく部屋に入ると、いい子と褒めるように頭を撫でられた。

「折角ルールを作ってあげたんだから、ちゃんと守りなさい。こちら側に近づきすぎて境界を越えたら、戻れなくなってしまうのだから」
「分かってる……おやすみなさい」

微かな声であいさつをして、彼女に背を向けた。
ぱたん、と戸が閉まる音。それきり何も聞こえなくなる。
小さく息を吐いてベッドに歩み寄り、そのまま倒れ込んだ。昨日焚いた香の匂いが残っているようで、息を吸い込むと澄んだ香りが体の内側に染み込んでいく感じがした。
途端に眠気が襲い、大人しく目を閉じる。微睡みの中で、彼女の言葉を思い出す。

――境界を越えないように、ルールを守りなさい。

人として生きるための基本的な決まり事。守る限りは、人として生きられる。
昔、父に聞いたことがある。社が壊された時、祖先は神楽を舞い続けた。
直した社の中で、寝食を惜しんで何日も。去ってしまった神様のために奉納した。
神様が戻ってきたのかは、父は教えてくれなかった。父にも分からないのだろう。
きっと、境界を越えてしまった彼女だけが、全てを知っている。

意識が沈む。現実が遠くなり、夢の中で笛と太鼓が響き出す。
手には扇。体の一部のように望むままに動かし、音に合わせて舞い始める。

彼女は悲しむだろうか。ふとそんなことを思う。
けれどもう引き返せない。いつか境界を越えてしまうことを、きっと自分は彼女に出会う前から理解していた。
くるりと扇が舞う。いなくなってしまった神様へ、祈りを捧げ舞い続ける。

人々が苦しむ時、縋れるものになれるように。感情の捌け口を、二度と誰かに向けさせないように。
優しい彼女と同じ場所に立つため、夢現に神楽を奉納する。

4/26/2026, 2:02:41 AM