祈ることって誰にもあることで、何かをくださいとか、何かがいらないとか。もちろん、自分にはどうにもできない状況で、身近な人の幸運を願う祈りはとても尊い。
これには、モノなり状況なりを「頂戴」とお願いする祈りもあるけれど、さらには「〇〇するから頂戴」という形もあって、こちらは交換条件型。まずは酒肉を禁じる、趣味を止める、みたいな「止める」パターンがある。けれど、神仏にとっては、ヒトが好きなものを止めても交換条件になんかなるはずがない。もしくは、どこかにご寄付をするからとか、1日に1回人助けをするから、のような「行動する」パターンもあって、特に後者は願賭け行になるんだけど、そもそも神仏と交渉しよう、それに賭けようとかいう発想が不遜で烏滸がましい。むしろ単純にお願いして縋った方が、神仏の尊厳には相応しいんじゃないかとも思うくらい。
もちろん、祈りから派生して自分の想念や言動を律するための行動もあって、これは勤行とか座禅とかコンテンプレーションとか念仏とかマインドフルネスとか。こうなると願かけではなく修行になるけど、これでも果報や覚醒、日常生活の効率化なんかを賭けてる人もいる。
よく考えれば、自分の願いが叶えば他の存在が損をするのかもしれないし、単純に他にも同じ願いで競合している人がいるなら、どっちも叶えるわけにはいかないはず。
むしろ全知全能の神仏がいるならば、自分みたいな人類の末端のヤツが今さら何をしようが、必要なことがあればなさるだろう、とも思うし、ならば神仏の道か人の道か、むしろ法というか摂理なのかは知らんけど、踏み外さずに正しい言動に委ねといて、ときどき困りきってお願いもする、っていうあたりが、人の身の丈にあった祈りなんじゃないかな、というか自分にはそれしかできないっす...
11/13/2025, 11:55:35 PM