家に帰ると、靴箱の上にあじさいの花が活けてあった。
今まで妻が花を活けたことは一度もなかった。むしろ、花を活けるのは好きではないと言っていたはずだ。
「どうしたの、あじさい。花を活けるなんて珍しいね」
「あれね、隣の神林さんから貰ったのよ」
妻の口から『神林』という名前が出てきてドキッとする。
俺が今まさに不倫をしている相手の名字が神林だったからだ。
変な冷や汗が出てくるが、それに気づかないふりをして、いつも通りの口調で言葉を返す。
「かっ…神林さん。珍しい名前だね」
ちょっと噛んでしまったが、普通に返事はできたはずだ。
「あれ、神林さん知らないの?」
「初めて聞いたよ」
「ふーん、そう。」
謝罪をするべきではないのかと思いながらも、もし妻が知らなければ、墓穴を掘るだけだ。
俺は、何も言うことが出来なかった。
しばし、沈黙が続いた。
妻はじーっと観察するようにしばらく見ていたが、沈黙を破って口を開いた。
「どうしたの、急に黙って。」
「いや、別に何もないけど」
「ふーんそう……。ところで、あじさいの花言葉って知ってる?ちょっと調べたけどよく分からなくて」
「すぐに出てくると思うけど」
俺がスマホを取り出すためにポケットを探ろうとすると
「あとでいいわよ。調べといて。私出かけてくるから、また今度教えてくれる?」
そういって、バタンとドアを閉めて、妻は出かけて行った。
しばらくして妻の足音が聞こえなくなると、安堵のため息が漏れた。
妻は怒っていなかった。
何とか、やり過ごせたと思いたいのだけど。
俺は冷や汗をぬぐって、リビングに移動してソファに腰掛けると、テーブルに何か紙が置かれていることに気づく。
裏返してみると、それは妻の名前の書かれた離婚届だった。
俺は急いでスマホであじさいの花言葉を調べる。すぐに花言葉は見つかった。
そして俺は、妻が二度と戻ってこないことを悟った。
6/13/2024, 12:35:37 PM