テツオ

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長い雪道の奥には、紫色の扉がある。
おれは、その扉に背をあずけて、雪のなかにあぐらをかく。

きょうは、いつもよりはやい時間に来てしまったが、扉の向こうからは、かすかに箒をはく音が漏れてた。
いつもはおれの足音を聞いて、扉の前で話す準備をしてくれてるもんだから、気兼ねなく扉を叩けるが、いまはそうじゃない。

つまり、いまおれがここで突然話しかけたら、ものすごく驚かせるだろう。
思いっきり息を吸った。

「よう!いる?」
「ハッ……!?」

扉の向こうから、硬質な音が響いた。
箒を落っことしたな。悲鳴は聞こえなかったけど、なかなかいい反応だ。

「へへへ、ビックリした?」

……呆れてものも言えないのか、向こうの女性は黙ったまんま、返事がない。

「アンタは今、おおこえ〜って思ってるだろうな。大声だけに」

扉越しで話す弊害だ。
相手の表情が見えないのが、ちょっと不安にさせてくれる。
しかし、空気がプルプル震えるのを背中に感じて、おれはつい笑ってしまった。

それにつられて、扉のむこうのおばさんもふきだしたみたいで……扉がドンッと揺れた。
勢いよく笑ったから、前へつんのめっちゃったんだろう。

そのまま、しばらく笑って、そしたらおばさんが話し出した。

「ふー……ねえ、あなた、銀河鉄道の夜って本をしってる?」

銀河鉄道の夜。
銀河の鉄道って、そんなの実在するのかな。
それともフィクション?
おれはしらないと答えた。

「そうよね。すごく古い本だもの!だけど、わたしだいすきなの。おもしろいわよ」
「へえ……アンタがおもしろいっていうならおもしろいんだろうな……キョーミあるぜ。どんなお話なんだ?」
「あら、本なんてくだらないって言われるかとおもったのに……うれしいわ。じゃあきょうは、その本についてお話してもいいかしら」
「もちろん」

特別キョーミがあったわけじゃない。
そもそも小説とか本とか、あんまり読むタチじゃないし、おばさんのいうとおり、ここじゃ本持ってるヤツのほうが希少だ。
でも、友達のすきな本を知るのは、楽しそうだった。

「童話よ。なまえのとおり……二人の少年が銀河をはしる美しい鉄道に乗って、冒険するお話なの」

童話か。だけど、弟にいつも読んでやってるような、絵本みたいなものじゃないんだろうな。

「その本、分厚い?」
「ええ、とっても厚いわ。だから飽きない」

おばさんはため息をついて、話を続けた。

「二人は、その冒険でいくつか学ぶわ……」

なにを?と聞くと、おばさんは少し言葉をつまらせて、少し笑いながら話す。

「ごめんなさい。私なんども読んでるけど、まだあなたに説明できるほど理解はできてなかったみたい。私から話したいって言ったくせに、ほんとにごめんなさいね」
「いやあ、いいよ。話せるとこだけ話して」

わからないのに、わかった口ぶりで話すより、素直にいてくれてたほうが、ずっといい。そう思った同時に、そんなに難しい内容なのか、と思った。
おばさんが理解できないんだから、おれが読んでも到底、下手な解釈のひとつすらできなさそうだ。

「ありがとう……やっぱりあなたはやさしいわ。
ええと、じゃあ、少年ふたりについて、お話するわ」

おれは頷いたが、扉があるし、おそらく背中越しに話し合っているから、みえないことに気がついて、改めてうん、と相槌をうった。

「ひとりは、カンパネルラという名の、男の子。背が高いの。
もうひとりは、ジョバンニというわ。
ジョバンニのお父さんは、漁師なのね。北のうみへいったっきり、ジョバンニと彼の病気のおかあさんをのこして、もどってこない。だからジョバンニは、まいにち学校へ行って、仕事をして……いそがしい。
幼なじみだったカンパネルラとは、すっかり疎遠になっちゃって」

おばさんはそこで語を区切った。
勢いはたしかにあったのに、せきとまった。
おれはそれをすこし不自然に感じて、扉を振り返る。
しかしやはり、それには意味が無い。おれはまた、頭を扉へ預けた。
おばさんは、おれの声と知り合ってからも……きっとそれ以前も、この扉を開けてくれたことがない。

「……ずいぶん、さびしい話なんだな」

しばらく黙っていたが、話が続く気配はなかったので、おれは、まあしびれをきらしたんだな。
話した。
すると、後ろから、なにかしらがこすれる音だけが響いて、それから一拍置いて、おばさんが「ええ。そうなの」と相槌をくれた。

「……ごめんなさい。なんだか、切なくなっちゃって……私、カンパネルラとおなじだわって。
ジョバンニのつらい立場をわかっているのに、声もなぐさめも、なにもかけず、ただ、ひとりだけ……」

いや、きっとジョバンニは、自分の立場もつらいことも、なにもかも、カンパネルラに打ち明けなかったんだ。
だからカンパネルラは、ジョバンニになにもできなかった。実際、ジョバンニにとって、カンパネルラの行動は、一番のなぐさめになったかもしれない。

第一おれだって、おばさんのなまえも、立場も、なにもしらないじゃないか。

「ごめんなさい、続けるわ」

おばさんは、やはり自分のことについて、なにも喋らないつもりらしい。

しかしそれは、おれも同じだった。

「……ふたりはね、銀河鉄道という、蒸気機関車に乗るの。フシギな機関車よ。
突然ジョバンニの前に現れて、彼をカンパネルラに会わせた」
「なあそれって、ほんとにあると思うか?」

おばさんは、銀河鉄道のこと?といって「さあ、どうかしら。いつか、確かめられるといいわね」とだけ言った。
寂しそうだったが、おれは、もっと寂しく思う。
あるわけないと、笑い飛ばしてしまえるだけの環境が、おれとおばさんと、弟と、この世界にくらすひとびとにあったら、と思うと、やるせない。

「……そしてね!
その銀河鉄道には、さらにひとが乗ってくるの。特に印象的だったのは、二人の姉弟と、その家庭教師よ」

姉弟か兄妹か兄弟か。まあどうでもいいか。
おばさんはさらに続ける。

「家庭教師さんがね。機関車に乗り込んで、ジョバンニやカンパネルラへこう言うの『私たちが乗っていた船が沈みました』。
彼はね、姉弟を守ってやらなきゃならないって、少ない救命ボートに向かって……親や、周囲の人々がそうしたのね。救命ボートのすぐ近くには、ほとんどちいさなこどもしかいなかった。
姉弟の手を握って、ひしめきあう、その子らを必死で押しのけ、傾く船を歩いた、と。
『こんなにまでして助けてあげるよりは、このまま神の御前に三人で行く方が、ほんとうにこの子たちの幸せだとも思ったり』『神に背く罪はわたし一人で背負って、ぜひともこの子達だけは、助けてあげたいと思ったり』……」

また、おばさんが言葉をせきとめた。

「わかりにくいでしょう。私、なんだかやっぱり悲しい。
家庭教師が話し終わってから、聞いていた、おじいさんが口を開いてこう言うの。
『なにが幸せかわからないです。ほんとに、どんな辛いことでも、それが正しい道をすすむなかでの出来事なら、峠の上り下りも、みんなほんとうの幸いに近づく、一足ずつですから』。
家庭教師は、その言葉を聞いて『ああそうです。ただ一番の幸いに至るために、いろいろな悲しみもみんな、思し召しです』」

おばさんは、話し終えた、というような空気をだして、おれの言葉を待っているようだったが、くやしいくらい言葉が見つからなかった。

「……いい、話なのかな」

こうやって絞り出すのが精一杯だった。

「ふふ。たぶん。そうね。いい話だわきっと……」

しばらく、ふたりで黙っていた。
そこら中に、隙間なく並んでる雑木林のなかから、枝の折れる音がかすかに響く。鳥も、誰かの話し声もなにもない。ここは静かだ。

おばさんは、いま不幸なのかな。おれはどうだろう。ポケットのなかにつっこんでた手を、地面へ置いて、手袋に雪が染みるのを見た。

「……ほんとうの幸せとか、一番の幸せって、たどりついてみなきゃそれがどんなものか、わからないよな」

雪道に、おれの声がわんわん響いていて、少し笑える。イマイチ、自分でもなにが言いたいかわからない言葉だったから、余計にだ。
おばさんは、ひとしきり考えたのか、ゆっくり話し出す。

「どうなのかしら。たどりついても、わからないかもしれないわね」
「……弟がさ、えーと。前にも話したけど、みんなを守る」
「騎士ね。騎士になりたがってるって言ってたわ、あなたが」
「そうそう。騎士。イケてるよな。
夢を追いかけてさ、まいにちとっくんしてるんだよ。そういうとこもイケてる」

おばさんは黙っておれの話の続きを待ってくれている。

「……だけど、その夢が実は、自分を苦しめる結果に終わったらって思うと……報われない。
だから、もし自分の一番の幸せがどんななのかって、はじめからわかってたら、なんて、おれみたいにグータラなやつは思うんだ」
「……難しいわね。ほんとうに」
「へへへ。こんなふうに考え込んでる間に、行動したほうが幸せになれそうだ」
「ほんと。そうしたら、私そろそろ行くわ」

パサパサっと音がしたかとおもったら、扉がきしんだ。
おれおなじく、おばさんも扉にもたれかかってたらしい。

おれも、ぼちぼちたちあがって、扉をふりむいた。

「じゃ、またあした」
「あしたは、もっと楽しいお話をしましょう」

おばさんの足音が扉の向こうから響いて、やがて聞こえなくなるのを見送る。
おばさんは、銀河鉄道の夜をなんどもしきりに読んで、ほんとうの幸せだとか、ジョバンニやカンパネルラについて、ずっと考え込んでるんだろうな。

「自分のほんとうの幸せがどんなか知っててもさ。勇気がないとなににもならないんだよな。おばさん」

おれは雪を蹴って、誰にも聞こえないくらいのちいさい声で言った。
それだけだった。

5/22/2024, 12:55:59 PM