風に乗って
ある暖かな春の日、
風に乗って足元へやってきた貴方のプリントを手に取ったのが、私の人生で一番の幸運でした。
プリントを手に取りゆっくりと見上げると、太陽のように笑う彼と、窓から見える桜の木が、まるで一つの作品のようで、くっと息を呑みました。
だけど私は弱虫です。
そんな貴方をそっと見守ることしかできなくて、いつも教室の隅で読みたくもない本を読んでいました。
いいえ、本なんて、読んでいませんでした。
私は本の向こう側で沢山の人に囲まれる貴方を見ていたのです。いつも、いつも、私はこうでした。
ある日、私は係の仕事で体育館裏の倉庫へと向かったのですが、その道すがら、俯いた女の子と貴方を見つけてしまいました。
なんとなく気まずくなって隠れましたが、女の子は私なんかよりもずっとずっと華のある可愛らしい女の子で、伏せたまつ毛も長くて、私の中でむくむくと、悪い感情が芽生えるのを感じたのです。
貴方の「ごめん」という言葉だけが聞こえてきて、安堵して吐いてしまったため息の、なんと滑稽なことでしょうか。
突然自分の感情にまで罪悪感が湧いてきて、その日は係の仕事もほっぽって、あわてて家に帰って泣きました。
人生で一番、といえるほどに涙を抑えられる目処もたたず、気付けば夜になっていました。
母親が遠慮がちに「夕食よ」とドアをノックする音が聞こえて、我に帰りました。
私はドア越しにやんわりとその提案を断って、またも息を殺して泣き続けました。
そうしてゆっくりと日が登り始めた頃、腫れた目を擦りながら、一本の万年筆を手に取りました。
私のお気に入りの万年筆でした。
便箋をテーブルに敷いてやると、不思議と考えるよりも先に筆が走り、涙も少しずつ、滴り落ちる速度を緩めていきました。
とはいえ、書き終わった頃にはその便箋は見るも無惨なほど涙模様でしわくちゃで、決して彼に渡せる代物ではなくて、そっと教科書の間へ忍ばせました。
「だからかぁ」
目の前の男性がいつかのようににこやかに笑った。
「俺があの日、教科書貸してって言ったのに、ずっと断固拒否!って感じでさ、嫌われてるかと思ったよ」
卒業アルバムをそっと閉じた彼は続ける。
「もう初めて出会った時のことだって思い出せないくらい、一緒にいるのが当たり前になってる…なんて言ったら、君は落ち込むかな」
彼の目が窓の向こうの桜を捉えた。
「そういえば…出会った時もこんな春の日だったような気がするなぁ。覚えてる?」
「いいえ?覚えてないんです、残念ですね。」
私は重いお腹をさすったあと、光る薬指を見つめて言った。
「でも私はずっと、この春の風が大好きなんですよ。」
「俺も」とやわらかに笑う彼の髪を、春の風が揺らした。
風に乗って彼の…陽だまりの香りがした、ような気がした。
4/30/2024, 6:34:50 AM