▶138.「bye bye…」
137.「君と見た景色」
:
1.「永遠に」近い時を生きる人形✕✕✕
---
事務室の本棚にある書類を漁っていた子猫が、
とある箇所に目をとめ指で辿り、やがて顔を上げた。
「女将さん。私、決めました」
「どうすることにしたの?」
帳簿を付けていた私は、顔も上げずに子猫に問いかけながらも、
どっちも断って店にいてくれと願う自分を抑えるのに必死であった。
「はい、子猫はお人形さんと一緒に外へ出たいです」
「…そう。なら、残りの金は彼に払ってもらおうかしらね」
そのせいか、言うつもりもなかった意地の悪い言葉が出た。
今までの金額を考えれば、あと少しとはいえ。
残りの金をまとめてとなれば少々大きい。
とはいえ、これに関しては逃げ道があるのも知っていた。
子猫が見つけたのも、それだろう。
口に走る苦みを隠して、私は帳簿をつける手を止め顔を上げた。
「あら、女将さんともあろうものが出張営業制度のことを知らないなんてことはないでしょう?それに、私。知ってるんだから」
「何を知っているというの?」
言葉の不作法には触れず、話を促せば。
口角をつり上げ意地悪い表情を作った子猫は、私との距離を詰めて耳打ちした。
「お人形さんのお名前、姐さんがこっそり変えてくれてたのよね?」
姐さん。なんて懐かしい呼び名だろう。
ちらりと目線を向ければ、確信に満ちた顔の子猫が、満面の笑みを見せた。
「はぁ、はいはい、降参よ。まったく意地の悪さは誰に似たのかしらね」
「もちろん姐さんよ、嫌がらせに強くなれ強くなれって意地悪ばかりして」
「それは悪かったわね」
「ううん、姐さんが罪悪感に泣いていたの、こっそり見てたから大丈夫よ」
「まぁ!本当に子猫ったら!…っふ、ふふっ」
一頻り二人で笑って。
そして、やっと私は決心がついた。
「…子猫は、それでいいのね?」
「ええ」
◇
それから3日後。
「女将さん、お世話になりました」
「子猫、体に気をつけるのよ。✕✕✕様、よろしくお頼み申し上げます」
「ああ、分かっている」
二人で笑った日の夕暮れ、花街の目覚めと共に来店した私のお人形さん。
彼は女将と出張営業制度を使った契約を結んだ。
それは本来、お客さんがどうしても店の女を外に出したい時に使うもの。
店の女でも知らない子が多いくらいだからお客さんなんてもっとだ。
もちろんお金は余計にかかる。
期間は無期限。
金額は姐さん割引で私が自身を買い切れるまであと少しだった分と年利がほんの少し。
思い出せたから良かったけど。
何も言わないなんて、姐さんの意地悪は健在だ。
だけど、だけれど。
それが寂しさの裏返しだなんてことはお見通しなんだから。
「女将さん、ううん。姐さん。本当に今までありがとう。私、必ず私を買い切ってみせるから」
「ええ、期待しているわ。でも辛くなった時は、」
湿った声を断ち切るように一度言葉を切った女将は、ちょっと口角をつり上げて悪い顔をして見せた。
「ここにおいで。特別にタダで遊んで差し上げるわ」
「まぁ、女将さん自ら遊んでくださるなんて光栄です。そのお見事な芸、楽しみにしていますわ。行きましょ、私のお人形さん」
「ああ。もういいのか」
「ええ。さよなら、女将さん。お元気で」
「さよなら、子猫」
✕✕✕の腕に手を掛け、女将に、館に、背を向けて歩き出す。
馴染んだ匂いが遠ざかっていく。
花街を区切る門をくぐって、やっと後ろを振り返った。
✕✕✕も、私に合わせて足を止めてくれた。
成長してからは初めて花街の外へ出た。
それは、ずっと叶えたかった夢だった。
でもなんだか、あの場所に戻りたくて仕方ない気もする。
館は他の建物に隠れて見えない、近くて遠い距離。
私が何も言わずに顔を前に戻せば、✕✕✕は1歩踏み出した。
釣られるように私も歩き始めた。
「さよなら(bye bye)…姐さん…」
頬をひとしずく、涙が伝った。
3/23/2025, 9:47:56 AM