絆
「引っ越せよ、もう」
池を眺める窓辺の椅子に腰掛け、従兄は本を読んでいる。ふ、と目線をこちらに寄越した従兄は静かに首を振り、薄い唇を開いて、
「居心地が良いんだ」
と呟くように言った。居心地?最悪だろ、と心の中で悪態をつく。
この従兄の家は大きな池に面しており、従兄の座る窓からはその池が嫌なほどよく見えた。幼い頃はこの家で、俺と弟とこの従兄とよく遊んだものだ。俺の実家の近所にあったこの家は、俺の叔父とその妻ないしこの従兄の両親が早逝してから、現在は従兄一人の家である。早くこんな場所からは引っ越せば良いのに、この従兄はいつまでもこの家に住み続けている。
「そういう君こそ、相変わらずだ」
「なにが」
「今日は月命日だろ」
幼い頃、風の強かったあの夏の日、俺は弟と喧嘩した。公園で遊んでいた時だった。弟は泣きながら駆け出して行った。この従兄の家へ行こうとしたのだろう。あいつは従兄に妙に懐いていたから。
窓の外の池を見ると、その水面は凪いでいて黒々と底知れぬ暗さを湛えている。弟は池に沈んだ。風が強かったから、被っていた帽子が飛ばされたのかも知れない。あの頃は低かった柵のせいで、池に入るのが容易だったからかもしれない。喧嘩別れ。その喧嘩のせいで、弟は溺れた。
「この本にね、沼が出てくるんだ。人を飲み込む沼。まあ、底なし沼ってやつだ」
従兄は読んでいた本に目線を落とす。趣味が悪い。そんな本を読むのも、今ここでそれを口に出すのも。
「ここに座って池を見ながら本を読んでる。俺一人ぐらい平気で飲み込めてしまうぐらいの、池の深さを想像しながら」
「お前も、池に沈みたいのか」
「いつでもそうできるって、逃げ道を作っているだけ。そうすれば幾分か楽になる」
従兄は何を見ているのだろう。弟の沈んだ池に、自分を沈める妄想をしてまで。
「苦しいなら、こんな場所逃げ出せば良い」
「無理だ。だれもここから連れ出してくれないから」
「だったら、俺が…」
言いかけてやめた。それを言う資格は無かった。従兄はこの窓辺から、弟が落ちる瞬間を見たのだ。助けようとしたが、間に合わなかった。弟を引き上げたのは従兄だ。助けられなかった、すまない、と従兄は俺に縋って泣いた。俺のせいだった。この従兄をこの家に縛り付けたのは、俺だった。
だから俺は、月命日に毎回ここを訪れてしまう。謝りたかった。泥が絡みつくような、得体の知れない重苦しい意識に、俺は今もずっと苛まれている。
「君は遠くへ行きなよ」
遠く?どこへ行けと言うんだ。そう言うお前は?
罪の沈んだ池を見つめながら、この家の中、小さな世界で生きている従兄は、俺を許すとでも言うかのように、美しい笑顔で笑った。まるで、自分はここにずっといるのだと、無意識に悟っているかのように。
「行けるわけないだろ」
「…じゃあ、同類だな」
ある種の絆だった。罪の意識という、おおよそ絆を構成する要素としては相応しくないものが、確かに俺たちを繋ぎ止めていた。自分のせいだと、相手は悪くないのだと、お互いにそう思いながらも、ずっとそれを言い出せずにいる。
「なあ、引っ越せよ」
そうすれば、お前だけは逃げられるだろ。
「引っ越したら、君が来る場所が無くなってしまう」
「俺は、弟に謝りに来てるんだ。お前が引っ越そうが、関係ない」
「そうかな」
こちらを見る従兄の目には、何か奇妙な愛情のようなものが浮かんでいるように見えた。もしかしたらこの従兄は、俺がここに訪れて来るのを待つために、この家に住み続けているのではないかという、そんな奇妙な妄想が俺の頭に浮かんだ。
「また、会いに来てよ」
従兄はそう言って立ち上がる。俺の頬に手を伸ばした。俺が泣いていたからだ。でも、その手は触れる寸前で止まって、幼い頃のようにくしゃくしゃと頭を撫でられただけだった。それがもどかしく感じる俺も、大概だろう。俺たちを縛り付けているのは、窓から見えるこの池で、俺たちを隔てているのもまた、この池なのだ。
窓から眺める池は、黒々として、それでもやけに綺麗に見えた。
「なあ、池はどれぐらい深い?」
「どうしてそれを聞く?」
「なんとなく」
「…俺たち二人、静かに沈んでいけるくらいには、深かったよ」
従兄の目には、弟を助けたあの日の光景が映っているのだろう。
池の底、従兄と俺と二人で沈んでいくそのさまを、俺は想像した。
3/7/2026, 12:21:18 PM