虚書/Kyokaki

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【テーマ:終わりなき旅】

 ドーモ=オヒサシブリデス(19xx〜)
 幾日どころか幾月が経ってしまいましたが、覚えておいででしょうか。フィクションを書くということで虚書でございます。

 先程用事があったために職場(広義)にて待機していたのですが、他にも同じ部屋にいた方達がいました。
 彼らはいくつかのグループに別れて遊んだり、翌日にある行事に向けた作業(物をデコる)をしていて、仲の良さを見せつけられたような気分でございます。私は一人でスマホを見るだけという、なんとも虚しく感じながら時間を潰しておりました。
 有り体に言ってしまえば、その時寂しかったからこそ、皆様と繋がっていると感じれるここで再び筆を執ったということでございます。

 さて、終わりなき旅と聞いて私が真っ先に思い浮かんだのは「人生」でございます。ええ、勿論“死”という名で体への終わりは訪れます。しかし輪廻転生の考えを適用すると、魂の活動に終わりはないのではないかと思ったのです。

 私は所謂“敏感さん”という分類に腰くらいまで浸かっております。簡単に言えば「これをすればこの人は嫌な思いをするかもしれない」というのを常々考えております。“仲間外れにされるのが嫌だから”という自分本位の目的ではありますが。
 だからこそ人に踏み入れず、踏み入らせず、という底なしの泥沼に沈んでしまっているのでしょう。だからこそ友人とは長く続かないのでしょう。疎遠になったらそれっきりなのでしょう。
 勿論そこまで深く考えている人は少ないというのも自覚はしておりますが、如何せんこの生き方に馴れてしまってから気づくというのはあまりにも遅すぎたのだと本能が悲痛に叫んでいるのが聞こえます。
 皆様もそういった経験はございませんか?まあ、あった方が嬉しいという同調圧力に似たそれも自分の嫌悪の対象になってしまうのはどうしようもないと自覚してしまいますが。

 閑話休題。

 そんな終わりなき旅の内のほんの少しの想い出。そう考えれば私の自己嫌悪も矮小に感じる……と通常であれば言うのかもしれませんが、私は異を唱えさせていただきましょう。
 例え輪廻転生したとして記憶は殆どの場合リセットされます。そして“今”の人格を作るのは“今”の記憶です。そこから考えると、経験を軽んじることは生に対する侮辱と言っても過言ではないのでしょう。
 それはそれとしてこういった逃げ道があるのも重要でしょうが、頻繁にこの道を使うのは寧ろ自己嫌悪と自己を乖離させてしまうのではないかと思います。「こんなことをするのは私であってはならない」という認識はいずれ身を滅ぼすことに繋がる可能性がありますから。
 ですから畢竟、“今”存在する自己嫌悪すらもひっくるめて己だと認識して生きていくしかないのでしょう。時々逃げたとしても、あまりに逃げ続けるのは滅びへの第一段階となります。
 私も、貴方方も。逃げ道に依存しないよう気をつけて生きていきましょう。独白よりも醜い散文を失礼致しました。

5/31/2024, 6:49:24 AM