Ichii

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蝶よ花よ

「僕はね、気付いてしまったんだな」
場末の居酒屋に男が二人、そこそこ身綺麗な出で立ちで並び座っていた。時計の針はとうに0時を通り越している。
二人は旧知のなかであり、大人になっても時折連絡を取り合って飲み明かすことがあった。今回の会合も、彼からの呼び掛けから開催されたものだったが最近は二人とも多忙であり、中々都合をつけることが出来なかったため、久しぶりの開催であった。そういう訳で、酒もそこそこに話に花を咲かせていたがお互い酒にそこまで強くもないため、それなりには酔いがまわっていた。そんななかにぼそりと呟かれたそれは、どこか剣呑な雰囲気を漂わせており、男はそれとなく居住まいを正した。
「どうしたんだ、そんな深刻そうに。」
酒が入れば次第に気が緩む。飲み交わす相手が親しい中であれば尚のこと。そうすると口は自然と悩みを零し、飲み会が相談会となることはよくある流れであった。男は慣れたように話の続きを促す。普段であれば流暢に言葉を紡ぐ口は、今回は何かを躊躇うようにもごつかせていた。
「僕らの仲じゃないか、今更何を言われたって突き放しなんかしないさ、なぁ」
しばらく躊躇った後、ようやくゆるゆると話しだした。
「僕は妻のことをとても大事に思っている。僕には勿体ないぐらいの人だ。だからできる限り幸せにする義務があって、僕はそれを全うしてきたつもりだ。」
「君たち夫婦のことはよく知っているよ、君がどれほどあの子を大切にしてるかも。何だい、彼女と喧嘩でもしたのか」
「いや、いや。彼女とはなにも。」
「これは、僕自身の問題なんだ。」
そこから彼の口はせき止めるものがなくなったようにとめどなく言葉を吐き続けた。彼は彼なりに、妻のことを大切に扱ってきたが、それと同じように妻からも愛されている自覚があった。穏やかな愛に浸った生活は幸福で、夢のようであったと。けれど、妻のお腹に子供が出来てからある考えが頭をよぎるようになったという。それは彼の学生時代の記憶に起因している。自分たちの学生時代はインターネットが主流になり始めた頃で、思春期特有の万能感や特別感に飢えた衝動のまま、中身のないハリボテな言葉たちを我がもののように振り回した。そのなかでもよく使っていたのが親ガチャという言葉だった。成績がのびないのも、欲しいものが買えないのも、容姿がいまいち冴えないのも全て生まれのせいにした。そうすれば、自分に非がないと思い込めたから。欲しいものが手に入らないのを自分の力不足ではなく、誰かのせいにできたから。けれども彼は気付いてしまった。大人になった自分たちが、今度はそれを言われる側になることを。大切にしたい誰かに同じだけとはいえなくても、想いを返されない悲しみを知ってしまった。
「嫁の腹はどんどん膨れていく。僕は、本当に親になれるのだろうか。その子にとって、いい親に」
ぽつりぽつりと視線を揺らしながら呟く姿に、男は何も言えなかった。最近彼が多忙にしている理由が仕事だけでなく、妻をサポートするために色々と手を回していたからだというのを思い出しながら、男の脳裏には昔の自分たちの様々な言動がぐるぐると渦を巻いていた。
「生まれなければよかったなんて、言わせたくないし、言われたくないんだ」
とうとう彼の口もそれ以降開くことはなく、二人は重い沈黙に閉ざされてしまった。
夜の街の喧騒が、幕を隔てたように響いていた。

8/8/2023, 8:05:37 PM