引っ越したその日、台所用品を開けていたら、くっきりと木目が見える丸いボールが出てきた。
その正体を思い出せず、でもなんとなくきれいだし、あいつに聞いても知らないっていうからおれが引き取ったのだった。引っ越した先で見てもそれは綺麗なボールだった。足の親指くらいのサイズで握り心地もいい。一箇所穴が空いていて、もともと何かについていたんだろうことを伺わせる。それは正体不明のまま、トースターの前に転がされることになった。
トースターの前というのは案外何事も起こらない場所なのだ。
入れる時も出す時も蓋を開けて蓋の上で作業してしまうし、だから蓋を閉めた状態で皿が置けるほどの幅もなく、何かをちょっと置けるわけもなく、だからそのボールは転がりもせずそこにあって、おれはその日、食パンを焼いた。
ところでおれの日常的な飲み物は緑茶である。出身地のせいか、急須を持たない暮らしがあることにかつてえらく驚いたことがある程度には常飲する。茶葉を買って、急須に入れて、お湯を注いで、マグカップに入れて飲む。食事のお供もおやつのお供も、暖をとるのも喉の渇きを癒すのも、おおよそ緑茶なのだが、トーストのときだけは、どうも緑茶は相性が悪いとおれは思っていて、実は紅茶も香りがパンに負けてしまう気がしていて、そのときばかりは、なんとなしにコーヒーが欲しくなるのだが、コーヒーは常備していないのだった。今は別れたかつての同居人は常備していた。大抵はインスタントで時々ドリップパックで、気づくとそこに飲み終わったカップがあるくらいには飲んでいて、それで
「ああーーー…。」
思い出して、おれは天を仰いで、それから俯いて、ちょっとだけ奥歯を強く噛んだ。
おれが茶葉を使って緑茶を淹れるのみならず、ティーパックに文句を言うのものだから(美味いのはわかってるんだでも、茶葉をあんなに粉々にした上、すぐ抹茶を混ぜるだろう。そしたら旨みは強いに決まっているし、おれにとって常飲したい味ではなくなるのだった。)、影響されたか対抗心か、コーヒーミルとドリッパーとドリッパーケトル、フィルターとコーヒー豆を買い込んできたことがあった。豆を挽いて、香りを楽しみ、丁寧にドリップするなんてのはあいつの暮らしと噛み合わず、結局一、二回使われた程度だったのじゃなかったか。ケトルとドリッパーは貰ってくれる人がいたのだけど、ミルだけは譲り先もなく、結局捨てることにして、そのときハンドルの持ち手のところだけ、外して捨てずに取っておいたのだ。反省のためだか戒めとしてだかなんだか、どっちが言い出したのかもう忘れたが、ともかくハンドル部分の持ち手だけは木製でワックスも艶やかで、それを外して捨てずにおいたのだ。で、それがこれ。
「ゔゔ。」
うめき声も出るというものだ。トースターが軽い音をたてる。音が鳴る家電の中でトースターの出来上がりの音だけは好きだ。乾いて、短くて、しつこさがなく、高すぎず、明るい。手の中に木製のボールを握り込む。
捨て、ないだろうたぶん。同居人は結構面白いやつだったのだ。おれは結構気に入っていたのだ。トースターの音のような軽さのあるその距離感も、あいつ自身のことも、気に入っていたのに、それらはもうここにないのだ。
でも別れたからこそ、その明るい軽さが明るい感触のまま胸に残っているのかもしれない。いい機会だったのかもしれない。後悔はあんまりしていないのも本当だ。
余熱で落ち葉を思わせる色に焼き上がった食パンを、吹き飛ばす勢いで腹に収め、コーヒーのことなんてすっかりわすれたかおをして、そのボールをトースターの前に置く。
置いて、びしっと指でさす。
「未練とかじゃないから、ほんとに」
ほんとに。
1/17/2026, 1:30:57 PM