『今日だけ許して』
「……ただいまー。あー疲れた」
残業を終え、フラフラになって帰宅したサラリーマン・遥斗(はると)は、玄関の扉を開けた。すると、部屋の奥から「チャッ、チャッ」と床に爪が当たる音が聞こえてくる。
「おかえり。遅かったじゃないか」
「……おい、今、しゃべった?」
なんとそこには――人の言葉を喋る柴犬のコマが立っていた。いや、立っていたどころか、二足歩行で腕を組んでいる。
「え、夢……? 疲れて幻覚見てる……?」
「幻覚じゃない。お前がいない間に、おれはネットで
人語を勉強した」
「ネットで!?」
「今の世の中、犬だって学ぶ時代だ」
「いや待て、操作できるのか?」
「肉球でスワイプしてる。努力の賜物だ」
遥斗は頭を抱えた。
だがそれよりも問題なのは、
コマの目が妙に冷ややかなことだった。
「それより遥斗。最近、朝の散歩、サボってるよな」
「えっ、いや、仕事が忙しくて……」
「ごはんも安物のドッグフードばっかり。
愛が感じられない」
「愛」
そう言いながら、コマは小さな紙を突き出した。
そこにはミミズの這ったような文字で――
「今日だけ飼い主交代券」。
「……なにこれ」
「明日はおれが飼い主、お前がペットだ」
「はあ!?」
「おれが起きたらお前は手作りの朝ごはんを作る。
散歩もおれのペース。いいな?」
「いやよくねぇよ」
⸻
翌朝。
「起きろ、遥斗。散歩の時間だ」
「ぐぅ……」
「こらっ、寝坊は罰だ」
コマはリードを片手に、
逆に遥斗の首に巻きつけた。
「ちょ、待て、何してんの」
「いいから歩け。リードに慣れておけ」
「おかしいだろこの関係!」
朝の住宅街を、犬が人間を引き連れて歩く光景。
近所の奥さんが二度見して、
「あらあら、新しいプレイ?」と呟いた。
「クソ!まるで俺が変態みたいじゃないか!」
「吠えるな。近所迷惑だろ」
⸻
その夜。
コマはソファにふんぞり返って、
ヤギミルクを飲んでいた。
「今日のおれ、立派な飼い主だっただろ?」
「うんうん、コマくんは初めての飼い主よく頑張ったね!ほんとスゴい!」
「ふふん。よし、特別に頭を撫でてもいいぞ」
褒められたのが嬉しくて満面の笑みを浮かべるコマ。
遥斗の目の前に座ると、耳をぺたんと畳んで
尻尾をふりふり振った。
撫でられスタンバイの体勢だ。
「どうした、遥斗。早く撫でろ」
(これじゃ普段と変わらないな)
飼い主とペット。支配する側とされる側。
しかし実際は、お互い相手に依存し合ってるのかもしれない。
⸻
翌日。
ベッド横のチェストに一枚のメモが
置かれていた。
『反省した。
やっぱりおれは飼われる方が好きかも。
コマ』
視界の端では、ベッドに丸まって眠るコマの姿。
ぷぅぷぅと小さく寝息を立てている。
遥斗は苦笑して、コマの体をそっと撫でた。
「まったく……世話が焼けるやつだな」
「……ん、靴下美味い……」
「どんな夢見てんだよ」
窓から朝日が差し込む。
今日は絶好の散歩日和だ。コマが起きたら
すぐ出かけられるよう支度しよう。
新しい散歩コースに挑戦するのも悪くない。
そんな考えを巡らせながら遥斗は体を起こした。
10/4/2025, 5:00:02 PM