──【僕と一緒に】──
……僕の話をしようと思う。僕がまだ世間知らずな独りの坊ちゃんだった時の話を。
所謂、都会人として産まれ育ってきた。 海も山も縁のない、辺り一面はビル、ビル、ビルな場所。洗練された人たちが幼い頃から多かったし、両親も世間で言う所の高所得は立場だったのだと思う。
大人になってわかった事だが、毎朝バター塗って食べていた食パンがあれほど贅沢な事だなんて思った事が無かったし、小中高も似たような家庭環境で暮らしてきた人間ばかりだから、成長の過程で気付かされる事もないまま育ってきた。
そんな僕が本の虫だったって言ったら恐らく鼻で笑われてしまうだろう。 本を嗜むなかで低所得の暮らしだってたくさん触れてきた。なのに上記の通りの有様だったから。
食事を食べられない人も、高くて手をつけられない生活があることも、当時の僕はまるで魔法が使える世界と同等に現実離れした物語、としか思って居なかったから。
そんな僕が、世間の生活水準の平均を知るきっかけになったのが大学生になってから。 家の近くの大学に通っても良かったのだが、高校三年生の自分は思春期やら自立心やら、妙なプライドが相まって一人暮らしを経験させて貰えることになったのだ。
恥ずかしい話、その歳までお金なんてぼくは使った事なかった。値段なんて見ずにクレジットカードで生きていたから。 だから、適当にネットで「大学生、ひとり暮らし、毎月のお金」を調べて最初にでてきたリンクを印刷して……後はお手伝いさんに全て任せて高校生活を終えた事を覚えている。
……だからこそ、実家離れデビューには心底驚かされた。 小さな建物に続々と、同じ年頃の人間が入っていたから。 その流れに身を任せるまま受付と書かれた場所で鍵を受け取った。 それが、僕の寮暮らしのスタート。
とにかく、環境で本を読めない日が続いて、大学生活初日に音をあげそうになった。
壁は酷く薄いし、あちこちから大きな声が絶え間なく聞こえてくる。 エアコンのカビ臭さも最初はどこから漂ってきているのかも、分からなかったし。
しかも、虫が平然と僕の生活圏と同居している事が許せなかった。 許せないのは……今もだけど。
そんな環境に毎日、帰るのが嫌で、なにかと理由をつけては大学に残って、許される限り自習スペースや図書館で時間を過ごす事が多かった。
所謂、今までと変わらず一匹狼をしていた僕に友人といった存在は終ぞ出来なかった……たった一人を覗いて。
まぁ、結論を言えば僕の妻となった人だから、友人が終ぞ出来なかったは強ち間違っても居ないのだが。
彼女、里奈は僕より2つ年上だった。 初めての出会いは図書館の前。 いつも通り講義終わり、その足で図書館に向かうと、入口で誰かと電話している女性がいた。「聞いてない」だとか「もうきてる」とか「そんなぁ」など、落胆した口調だったから、楽しい話では無いのは一目瞭然。
そして僕は物理的にスルーして中に入ることが出来なかった。彼女が入口のど真ん中に立っていたから。 困り果てながら、仕方ないから寮に戻ろう、とした時に目があった。
「あー!ごめんじゃん!邪魔だったね!」
やけに響く声で謝られたあと、彼女が横にズレてくれたから、いつでも入れる状況に安堵したのもつかの間、僕のことをじっと見てくるものだからあまりにも居心地が悪い。
「ねー!あんたさ!1回生!?わたし3回生!よろしくね」
「あ……えっと、うん」
それで終わらないのが妻の性格だ。 いそいそと図書館に入って本を読み始めたものの、隣に座ってきた彼女。 暇さえあれば僕の読んでる本を盗み見て、それは何これは何と聞いてきたんだ。 先輩なのに、だ。
本来であれば僕が苦手なタイプだった。 なのに聞かれて悪い気がしなかったのは彼女が本へのリスペクトがあったからだと思う。 内容を教えるのが楽しかったし、真剣な目で僕の話を聞いてくれたのが楽しくて仕方なかった。
そして、その時間は半年に渡って続いた。 周りの友達が早めの就活だったりとかで暇を持て余していたらしい。 どうやら彼女は既に青田買いされているようで、残りの大学生活を遊ぶことに全振りする事にしていたのは後で聞いた。
とにかく僕が図書館に足を運ぶ頃には既に中に居ることの多かった彼女。彼女はだいたい、前日に僕がオススメした本を読んで僕を待ち構えていた。
この頃には既に僕はただ、彼女に話をするだけでなく、彼女の話を聞くことも多かった。離島出身な彼女から聞く話は全て新鮮で楽しかった。
……そんな、ある日のこと。 彼女は僕を見て、笑顔で駆け寄ってきた。 ダボッとした長ズボンをおもむろに捲りあげて、膝から溢れる血を見せてきたんだ。 無邪気な子どものように。
「みてー!大人になってひさしぶ「行きましょう」」
彼女とは反対に、顔を青くした僕は思わず、彼女の細い腕をバッと掴んで話を遮る。
「僕と一緒に行きましょう、医務室に」
彼女と会って、初めて声を張った瞬間だった。 図書館に響いた僕の声が恥ずかしくなって俯いてると、背中をバシバシ叩いて、「ありがとね」と感謝されたのは今でも覚えているし、彼女とも最期までこの時の話を繰り返していた。互いにとって、何気ない一瞬が思い出に切り取られた瞬間だったから。
彼女が僕への逆プロポーズでオマージュしてきたくらい、僕が王子様に見えたらしい。 本当に、いつでも恥ずかしげなく言ってくるから、いつも、いつも僕の方が先に恥ずかしさで胸がはち切れそうだった。
実家に縁を切られて良かったと思うほど、貴方が亡くなった今も、これからも、僕は貴方の運命に引っ張られた事を誇りに思っているよ。
『私と一緒に歩みましょう、2人のお家に』
『もちろん、僕で良ければ。2人で一緒に』
【もちろん、その約束は現在進行形である】
9/23/2025, 11:55:41 AM