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私の名前

種という数え切れないほどの同類の中で、個人を区別するものは一体なんだろうか。見た目?だが、世界には同じ見た目の人間が3人いるとも言う。性格?すぐには区別することは不可能だろう。
そこで分かりやすいのが“名前”なのだろう。容姿と組み合わせることで機能する、一種の識別符号。
人というものはその短い符号に意味を込めたがる。そこに込められたものがなんであれ、与えられた名前こそが、その人を区別する根本なのだ。

もしも、その名前がなかったとしたら。失くしてしまったとしたら。私という存在は何処へいってしまうのだろうか。私は、存在できるのだろうか。

「結論から言うと、存在することは出来ている訳だが。」
「名前を失くしたのってそれを証明するためにわざとしたんじゃないよね?」
呆れたように責め立てる彼女の顔には青筋が浮かんでいた。
「名前を失くしたからこの疑問に辿り着いたんだ。」
「それなら良かった。証明するためにバカをしてきた君だからもしかして、とね。」

「名前を失くして、なにか変化はあったの?」
彼女は既にガムシロップが入ったコーヒーに、角砂糖を3つ入れてそう聞いた。あまりにも不健康で子供っぽい味付けのコーヒーを見て、思わず眉間に皺が寄る。
「名前が無いわけだから、身分証明に使えそうなものが単なる紙切れになった。もし私になにかあったら死んだと思ってくれ。」
「なにそれまじ笑えない。」
「だが、それ以外に困ったことは特にないんだ。不思議なことに名前がわからなくても周囲の人間は私を区別出来ている。現に、君もこうして私をカフェに連れ込んで会話をしている。どうやら私の仮説は間違っていたらしい。」
名前が無くても、何も変わらなかった。隣家の住人はいつもと変わらず挨拶を交わすし、近くの小学生は相も変わらず馴れ馴れしく絡んでくる。そして目の前の彼女も、気にせずコーヒーに5個目の角砂糖を入れている。

「私の考えた名前と存在に関する仮説を聞いてくれる?」
「どうぞ。ちょうど思考に行き詰まっていたところだ。」

例えば君の前に小学校時代の友達が現れたとする。君たちはとても親しい友人だったが、10数年という月日は残酷にもその記憶を風化させてしまっていた。
あるあるでしょう?一緒にしたことも、その時の感情も、覚えているものは確かにある。でも名前が思い出せない。
そんな自分に対して、向こうは当たり前のように名前を呼んで話しかけてくる。
嗚呼気まずい!気まずすぎる!にこやかな相手に反してこちらの心情といったら地獄絵図だ!話したいことは積もりに積もっている。だが名前が思い出せないから話しにいくったらありゃしない!嗚呼苦しい!悩ま……

話が長い?いつもの君の方が長いよ。まぁここはやってきた店長のホットケーキに免じて許そう。
でも、名前がないからといって絶対に会話が成り立たない訳じゃない。君には相手との記憶がある。苦労はするだろうが名前を呼ぶことを避けて思い出話をすればいい。

「つまり、それと同じだよ。名前がなくても記憶がある。その存在に付随する大切なものがある。それによって私達は互いを認識できる。」
「なるほど。それは面白い仮説で実に有力的だ。この現状を説明するにはピッタリの例だな。余計な部分を除けば。」
「うるさい。」

ホットケーキにシロップをかければ、ほのかな甘い香りが席に漂った。
「ほれはほれほひへ」
「飲み込んでから話せ。」
一瞬の好きにホットケーキにアイスとチョコソースを乗せ大きくほおばった彼女は、まるでハムスターのようだった。
「それはそれとして、君名前は取り戻せるんだよね?色んな手続きとかヤバくない?」
「……善処する。」

私の名前の行方は、また別の日に。










7/20/2024, 2:33:35 PM