願い事
ハロウィンやクリスマスは好まない割に、正月、節分、雛祭りだとかカタカナが使われない季節の行事は基本的に執り行われる我が家。つい最近水無月を食したと思ったら、七夕も祝うのは毎度のこと。どこで保管しているのか分からないサイズの笹を出してきては、ここ最近自分のせいで緑が増えた庭に飾って願い事を吊るす。薄黄色の細長い和紙に筆ペンで書く言葉は毎年変わらず"世界平和"。家内安全と無病息災は母が祈ってくれているから、特に大きな願いも欲も思いつかない自分は毎年これを書く。というか何か書きたいほどの思いがあったとしても、家族に見られるから個人的な願いはどうしても書くのが恥ずかしくなってしまう。短冊を書き終えてから、自室に戻ってベッドに潜り込む。ふと、短冊に書きたくなってしまったあの人のことを思い浮かべては、赤くなった顔を隠すように布団を被り直す。そんなことをして母や姉に見つかっては質問攻めにあうのが目に見えている。短冊に書かなくても見つけて叶えてほしいなんてわがままだろうか。やっぱり書かなくちゃ意味ないのかな。不意に、携帯の画面が光って一つの通知音が鳴る。まだ眠れないし、と気の抜けた顔でロックを解いたら、さっきまで頭を占拠していたあの人のトーク画面が開かれた。驚いて、かすかに残っていた眠気もゼロになったところで文面を読み直す。
「七夕は何か願いましたか」
端的な文字列も、敬語の丁寧な文脈も、どこかあの人らしくて心が高鳴る。まさかメッセージが来るなんて、ああ七夕万歳なんて思いながら世界平和の文字を打ち込む。書き終えたところで、ふと気づいて送ろうとした手を止める。母も、姉も、見ていない。織姫と彦星だって短冊は気づいてもメッセージアプリの言葉なんて見ていないだろう。それでも確実に、あの人には届く。あの人に届いてほしくて、でも、まだ届いてほしくなくて、それでも叶えたいこと。あなたと会いたいと伝えたら、叶えてくれるだろうか。仲良くなりたいと言ったら、気持ちを知りたいと言ったら、どんな反応をするだろうか。短い時間で頭をフル回転させても、そのもしもを実現するような勇気は無くて、最初に打ち込んだ文字を送ることしかできない。ああ、自分のこの性格が嫌になる。結局何もできない。いつもこうだ。はぁ、と大きいため息をつきながら携帯を眺める。すぐについた既読に、新たに送られてくる言葉。「川崎さんらしくて素敵です」、続いて「叶うと良いですね」の文字。こんな嬉しい言葉をかけてくれるんだったら、大嫌いな自分の性格も悪くないかも、なんて思いながら言葉を返す。
「ありがとうございます。あづまさんは何か願ったんですか」
あの花屋のロゴが入ったひらがなの名札しか知らないから、トークアプリに登録されている下の名前には気づかないふりをしてそう問いかける。既読がついてからほどなくして返信が来る。
「何も願ってないので、川崎さんの願いが叶うように願っておきますね」
その文字に静かに崩れ落ちる二十三時。彼が叶うように願ってくれた自分の願いは、文字のまま綺麗なものではないから恥ずかしい。彼のように綺麗な心で誠実な行動ができるように自分も精進しようと思った。
7/8/2025, 10:21:27 AM